本記事では、ACADEMIC CAMPを開催するにあたって、2018年3月段階で、整理し提示した現状認識について書き記します。
『これからの大学(学問×地域×教育)を考えるACADEMIC CAMP!』を行った開催経緯、目標(狙い)、大学を考える三つの方向性についてのまとめは下記を参照。
[aside type=”warning”] あくまで、ACADEMIC CAMPにおいて資料や説明を行ってきた論点提示を、改めて記事にて言語化したものです。そのため、より正確な理解や調査と議論が必要なのは言うまでもありません。やや恣意的な記述をしておりますが、学術論文というものではないことを踏まえて、あくまで起案者であり論点を提示したShare Study代表としちるのまなざしを強調することを意図したものとなっております。[/aside]大学×学問の現状認識の概要
研究ではなく、学問としているのは、個別的な取り組みを指す「研究」というよりも、これまで研究により積み重ねられてきた知の総体としての「学問」に対する理解が疎かになっている現状がある、という認識があるからです。
つまり、個別的な研究レベルで見れば盛り上がっている分野もあるが、総体的な学問レベルで「知」にまつわる言説を見ると、「学問なんてめんどくさいし、難しいことばっかやるより、行動して結果として目に見えることをやる方がいいでしょ!」という価値判断が優先される社会文化、政治経済的な現状になっているということです。
言い換えれば、「世界に対する理解」よりも「世界に対する効果」を重視する傾向にある、といってもいいでしょう((近代が形成されていった際には、「啓蒙思想(経験主義)」「科学主義」「産業革命」があったとされています。21世紀を迎え、グローバル化の中で急速に発達した情報技術のもと、脱近代が唱えられることがあります。近代が形成されていったことを踏まえると、脱近代とは「情動主義」「工学主義」「第四次産業革命」と捉えられるかもしれません。果たしてそれが「脱近代」なのかは要検討だと考えていますが、昨今の社会情勢やソーシャルメディア時代の言説は、この方向に傾いているように思われます。))。
「大学×学問」を取り巻く現状をもう少し細分化し、今回のACADEMIC CAMPで取り上げた主題としては下記の四項目でした。
- 基礎研究の軽視
- 大学に対する新自由主義政策
- ポスドク問題
- 教養主義の没落
学問と社会をめぐる関係の動向
基礎研究の軽視
基礎研究とは、応用研究との対比で用いられることばですが、ある研究に対して「どっちがどっち」と明確に線引することはできません。
ここでは、基礎研究を「人文学/人文科学、社会科学、数理科学、自然科学、情報科学、応用科学を含めた知の総体としての”学問”の積み重ねを通じた世界に対する理解」を目指した研究のことを指すとします。
ですが、2016年、新元素「ニホニウム」の合成に成功し発見に導き、命名権をアジアで初めて獲得したと報道される際に、「ニホニウムはなんの役に立つのか?」という、ありきたりな問が出回りました((「役に立つ」と問かけることそのものが”悪い”というのではなく、問がマスメディアを通じて拡散されてしまうこと、またそうした問いかけが流布される社会文化的な状況であることをここでは指摘しています。))。
科学という営みは、論文や教科書では「なぜどのように発見されたか」ということの経緯は、伝える相手に応じて捨象されます。
論文では「これまでの研究の整理と問題点を説得的に論じること、かつ専門性を持った研究者に評価されるために伝えるメディア」であり、教科書では「研究によって明らかにされた標準的な内容をこれから学びを深める学生に整理して伝えるメディア」であるからです。
ですが、研究という営みは、「◯◯が問題で、△△をしたら、◇◇ということが明らかになった」という単直線で進むものではなく、研究者が四苦八苦する中でなんとか妥当性を持って明らかになったという、もっと複雑なプロセスの中でなされるものです。
そして、研究による発見は、まずは「理解」がないことには、「応用」ができません。
つまり、複雑でめんどくさい研究を積み重ねることによって「発見」は発見として成り立つのであり、「◯◯すれば△△で役に立つ!」というものではないということです((研究者による知識経験から持つ仮説や問に応じて、「◯◯は役立てる」というように考えることはままあります。ですが、必ずしも「実社会の不特定多数にとって役に立つ」ために研究という営みがなされているのではなく、まずは「(世界に対する理解に)役に立つ」であり、後に「(社会に効果をもたらす)役に立つ」となることもあるということです。))。
学問における「理解」と「応用」の話は、自然科学に限らず、さまざまな学問にも通じる話です。
総じて「理解」を重視した研究が、専門性を持った研究コミュニティによる評価とは関係なしに、「(わたしや実社会にとって)なんの役に立つのか」という問いかけにさらされ、「(経済社会にとって)役に立つ」ばかりが評価されてしまうとすれば、基礎研究の軽視であると言えるわけです。
こうした状況化の中、後述する大学の「新自由主義政策」が進み、研究資金の獲得も「競争原理」によって評価されるようになってしまってきているのです。
大学に対する新自由主義政策
2020年度に向けた教育改革の一環としてなされているのが、10年代の大学改革ですが、これらは1980年代から徐々に勢力をつけた「新自由主義」と呼ばれる価値観が前面化された改革だと言えます。
特に昨今の国立大学に対する改革は、2013年11月に出された『国立大学改革プラン』に沿って行われており、また2004年から国立大学が法人化され、国の管轄されるものから独立した「経営組織」となり、人口減少が進む中での生き残りをかけた改革が求められるようになってきました。
特に、昨今で話題にあがったのが2015年6月に文部科学省から各国立大学に通知された『人文社会科学学部・大学院、教員養成系学部・大学院』の「積極的な転換、もしくは廃止」を求められた、いわゆる「文系学部廃止論争」です。
この内容自体は、マスメディアがセンセーショナルに「文系廃止」と報道が過熱したことが議論を呼んだ一因であり、かつ、文部科学省からは直接的に「文系学部を廃止するべき」というものではなく、教育学部の「新課程((1980年代の経済成長により学生の一般企業への就職によって教員就職率が低下していたこと、また団塊ジュニア世代の受け入れ先としての大学入学定員を減らすわけにはいかないという状況下の中、臨時定員増として設けられたのが新課程制度。))」が時代的な役目を終えたことによる廃止の決定を受けての通知だったということになっています((2015年7月24日に行われた文部科学省の定例記者会見にて、日本学術会議からの声明を受けた記者の質問に対して「特に教員養成系と人文社会科学系を取り上げているその理由というのは、一つは教員要請系は、既に教員要請を目的としない新課程を廃止する方針」と返答しており、後の日本経済新聞朝刊(2015年8月10日)『「国立大文系再編」通知の狙い、下村文科省に聞く―変わる社会、大学も改革を、教育・人社系に改善余地』におけるインタビューでも同様の発言をしています。))。
上記の件は、人文社会科学の軽視、ともつながる内容であり、通知をきっかけに「文系廃止」ということが議論される、その社会経済的な背景を鑑みると、大学改革における「競争原理」と「効率化」が前景化された事案だったと言えるでしょう。
政策は国立大学に限らず、私立大学にも及んでいます((内閣官房『人生100年時代構想会議第7回会合林文部大臣提出資料「大学改革について」』において、人口減少社会を見据えた国立大学と私立大学で地域連携を行うなど統合を見据えてた新規法人化の設立などが検討されています。))。
ですが、一概に、こうした政策を単なる「新自由主義」の帰結として片づけることもまた不注意でしょう((新自由主義とは「規制緩和と自由競争を旨とする」もので、教育改革においては、教育目的が経済成長に資するという点に焦点化され、逆に政府に寄る統制の強化をさやれやすい状態になることを指します。))。
実際に、人口減少は目の前で進んでいる現象ですし、また情報技術の発達により、経済構造が転換していることを鑑みれば、そうした時代的な状況に即して変化することも重要です。
しかし、だからといって、「教育」や「研究」という営みが、そうした社会経済的な背景にばかり影響を受け、肝心の中身や<価値>が問われないことは問題だと言わざるを得ません。
科学の「基礎研究」の軽視や「文系廃止」が真しやかになされていることを踏まえて、誠実に研究の意義や学問が積み重ねてきたことの価値を改めて認識し直し、各主体者との対話を通じて、議論する土台が必要なはずです。
ポスドク問題
昨今の大学をめぐる改革のみならず、「大学×学問」に関しては90年代になされた「大学院重点化」により、大学院進学者を奨励したにも関わらず、大学をはじめとした研究機関への正規雇用は増えないまま、非正規雇用に甘んじざるをえない人々が激増してしまった問題として、いわゆる「ポスドク問題」もあります。
大学院進学が奨励されたのは、グローバル化が進み、国際的な問題に取り組む高度人材育成を進めるためという名目がありました。
しかし、日本における大学と大学院との違いは単に「大学制度」の問題としてではなく、新卒制度や終身雇用といった就業システムにおいては、就職活動を行うにあたり、<価値>として評価されるのは「大学」までであり、「大学院」を卒業し修士号を得るということだけでは、専門性がその会社と合わない限り、マッチングしないという問題があるのです。
つまり、「教育(人的資本)」よりも「スクリーニング(学歴)」で評価され、かつ「学歴」として評価されるのは「大学」までで打ち止めになってしまいやすいということになります((人的資本論では教育を受けることによってその人の経済的価値が向上するという考えであり、スクリーニングとは小中学校よりも高等学校、大学の卒業者というように、より教育年数を受けた人を企業は採用するというもの。つまり、大学における教育内容よりも受験という選抜をくぐり抜けたことによって就職活動においては評価されやすいということになります。))。
営利な企業において社員として活動するにあたり、大学院における専門性と噛み合わない分野で活動することが評価されにくいという事情は、雇い入れる企業側にとってはそうならざるを得ないという話は当然あります。
だからこそ、公的な意味合いを持つ、学術的な研究能力を持った大学院生ならびに卒業生を増やす政策をするならば、公的な行政府はその対策をも考慮に入れる必要があったといえるでしょう。
しかし、実際に促進されたのは2004年の国立大学法人化による経営組織化でした。
大学院重点化政策に対する反省や政策なきまま、大学改革が進んでいる現状において、大学教員側ならびに大学院生が不審を持つことには、一定の妥当性があると言えるでしょう。
教養主義の没落
日本において「大学」という制度は西洋から輸入される形で、近代国家の形成に向けてつくられていったものでした。
そもそも、ヨーロッパにおいて伝統的に文化として構築されていった大学と、近代国家の形成の中でエリート教育を行なって官僚を育てることを志向した日本の大学(帝国大学)は、積み重ねられた伝統や社会文化的な背景が大きく異なるというわけです。
竹内洋(2003)『教養主義の没落』では、20世紀前期から後期に向かうにあたっての、「教養」にまつわる歴史的、社会的な変遷を教育社会学の観点から描いた新書です。
そこでは、岩波書店を媒介にして、翻訳されていく西洋知が、大学を権威化させるアカデミズムと出版文化の結託によって成り立ったのが、日本的な「教養主義」だったことを描いています。
また、第二次世界大戦後、復興と経済成長を目指して、また増大した大学需要を背景に、国家と結びついて発展してきていました。
つまり、初期は西洋知を輸入する母体かつ近代国家の構築を目指したエリートの育成のため、戦後は法制度を中心に国家の中枢を担う人材育成と高度経済成長を遂げていくための媒介として、「大学」という教育組織が成り立っていたということです。
さらにかつての時代には、アナログな紙媒体のメディアがほとんどを占めていましたが、今ではWebを介して情報を収集することができます。
グローバル化とともに急速に発達し普及した情報技術によって、かつては「知識」によってエンライトメント(啓蒙)されていた学生は、今では情報技術を駆使して企業していくことなどが評価される、つまり「技術」によってエンライトメントがなされるようになっているというわけです。
こうした状況下の中で、世界を理解するために、大変めんどくさく、イチイチ事細かに勉強し、調査し、分析をする「研究」という営みが、忌避される傾向にあるのは、仕方ないと言えるかもしれません。
が、こうした状況下だからこそ、何をもって<価値>となすのか、という大学にせよ、学問にせよ、根本的に大学という空間で行ってきたこと、行うことの<価値>を粘り強く考え、異なる価値観を持った人と議論することが必要なのではないかとも思います。
まとめ
上記の論点提示は冒頭にも書いた通り、あくまで「大学×学問」をめぐる一整理でしかありません。
ACADEMIC CAMPを行った記録として、改めて言語化させました。
そのほか「地域」「教育」に関する現状認識は下記のリンクを参照ください。
- 大学×学問の現状認識―学問と社会をめぐる関係を考える
- 大学×地域の現状認識―経済構造の転換と人口減少社会を見据える
- 大学×教育の現状認識―歴史と社会的機能から意義を再考する