本記事では、ACADEMIC CAMPを開催するにあたって、2018年3月段階で、整理し提示した現状認識について書き記します。
『これからの大学(学問×地域×教育)を考えるACADEMIC CAMP!』を行った開催経緯、目標(狙い)、大学を考える三つの方向性についてのまとめは下記を参照。
大学×教育の現状認識の概要
一般的には「大学」と聞いた際に、イメージするのは「どこかの地域に立地している建物」で、「受験を終えた若者が青春を最後に謳歌する空間」であり、「何かしら秀でた人が研究を行っている場所」というものかもしれません。
しかし、本当にそうなのでしょうか?
部分的には上記に書いたような場所ではありますが、あくまで”一面的”な理解だと言えます。
そもそもヨーローッパで「大学」が誕生した経緯や変遷、ならびに日本における輸入と独自の発展、さらには昨今の大学改革と合わせて以下の四つの側面から見ていきましょう。
- 大学の語源―ウニヴェルシタス
- 大学の変遷と日本における学知の輸入
- 大衆高等教育における教育の<価値>
- 高大接続改革
歴史と社会的機能から意義を再考する
大学の語源―ウニヴェルシタス
大学が誕生したのは12世紀ヨーローッパであったと言われています。
初期の大学では、今のように明確な建物や場所があったわけではなく、都市を中心に国境を越えて集まってきた人々が集って学びあった組合を「ウニヴェルシタス(universitas)」、つまり「複数の人の集合体」を”大学”と呼んでいました。
当時、明確な教育制度が存在していたわけではなく、学生または教師を中心に組合を形成することで、都市交局や教会から自治権を勝ち取っていたのです。
しかし、徐々に大学は地元教会からの自治を獲得するために教皇権力と結びつきを強め、癒着的なつながりを生むなどといった問題をはらむようになりました。
大学誕生初期には、国境を越えて、「学ぶ意欲を持った人々が集って大学が成り立っていた」、さらに「当時、権力を持つ都市交局や教会からの自治権を獲得するため」に組合として力を合わせていったことは特質に値するでしょう。
現状の大学では、多くの学生や世間における理解においては「学ぶ意欲を持った自治的な集団」というよりかは、「大学卒という資格を得るための装置」となってしまっているように見受けられる、さらに同時に行政府による圧力が強まっているからです。
必ずしも、「行政府」が”悪”だとか、そういった二項対立的な話をするのは早計ですが、結果的に、「意欲を持った学びや研究をする人々」にとって、競争や効率を求められてばかりいるのは、堅苦しさを覚えざるをえないでしょう。
大学の変遷と日本における学知の輸入
中世ヨーロッパの大学は組合として自治的にまとまって発展しましたが、近代においてはヨーロッパの大国(ドイツvsフランス)同士の争いの中から、各々への対抗意識によりナショナリズムが勃興し、研究と教育の一致を掲げるフンボルト理念と啓蒙主義などが相まって、近代型の大学が形成されていきました((今現在の、大学は必ずしも「内容中心」の教育ではなく、「方法中心」のゼミナールや実験室を中心としたカリキュラムへと変わった経緯が、フンボルト理念による大学改革であると言われています。))。
しかし、第一次世界大戦で疲弊したヨーロッパに代わって、経済発展の恩恵を背景にしたアメリカが大学院を発明し、また教育制度や人の交流の中心となっていったのです。
こうした歴史的な背景から、ヨーロッパでは伝統的な文化として積み重ねられる中で大学が存在し、アメリカでは大学での雇用も流動的に成り立つ経済が重視される傾向にあると捉えることができるでしょう。
一方、初期の日本における教育制度は主にドイツから輸入して構築していった一方で、今現在は資金的な仕組みをアメリカ型にする動きが加速しています。
つまり、大学内部の制度や教職員は伝統や文化を継承するヨーロッパ型であるのにも関わらず、経営組織や資金のやり取りに関してはアメリカ型になりつつあるということです。
こうしたあべこべで、ねじれた制度は内外でさまざまな亀裂を生む要因となっています。
一概に改革が”悪い”というわけではありませんが、ねじれているのにも関わらず無理な改革を強いるのは、反発を呼び、結果的に改革が鈍り、それ以上に「教育」が十全になされにくくなる側面が出てきてもおかしくありません。
大衆高等教育における教育の<価値>
人口減少や経済構造が転換されていく中で、大学を改革することは必要不可欠なのは間違いありませんが、結局のところ「なんの誰のための大学なのか」という<価値>の問題は慎重に、かつ誠実に議論すべきことです。
「教育」という行いは、基本的には「生きる力を磨く」ために、過去から学び、今を見つめる眼を磨き、未来へとつなぐためのものです。
ですが、何を持って「生きる力」となるかは人それぞれで、必ずしも教育制度の中で十全に「教育」がなされるというのはいささか理想論にしかすぎないはずです。
つまり、教育と一重にいっても、全体の傾向においては効果があると分析できたとしても、常に”そうではない”誰かがおり、またいつどこで何を持って当人にとっての「価値」となるかは、そう簡単には分からないということです。
教育とは、大変手間がかかるのにも関わらず、どのように効果があるとも一重に言い切れないものというわけです。
大学は、中学校・高校の中等教育を抜けて、高等教育として、専門的な学びを深める教育機関であり、研究機関です。
教育を施すのは大多数が専門分野で研究活動を行う研究者であり、必然的に最も教員がパフォーマンスを発揮し、かつ学生が学ぶ内容は、最終的なゴールとしては「研究」を通して知を生み、検証し続ける学問を学ぶことにあると言って良いはずです。
当然、そこには研究の価値を優先的に伝えることを前提に持った教員と、必ずしも研究に興味を持っていない学生との対立があると言えるでしょう。
ですから、大衆高等教育という高校生の進学率が50%を越えた大学教育の現在の中で、何を持って<価値>とするのかが鋭く問われているのです。
高大接続改革
ひとまず、大学で優先的に学ぶことに<価値>があるとしても、一方で、単純に多くの学生が大学に進学をするようになった現状では、学問を十全に教える・学ぶことは難しくなっていると言えます。
そこで、今では初年次教育や、もっとそれ以前に高校での学びを大学における学びと接続しようとする動きが入試改革などを中心にうごめているのが、昨今の教育改革の流れです。
大学では研究を学ぶとしましたが、そういった価値観のもと、高校において<探究>という研究の練習をする活動が一部で行われるようになってきました。
こうした流れは、情報技術が発展し、グローバル化が進むという、「変化の激しい時代」に適応して生きていくための、「自主的な学び」を促進することを目指した、アクティブラーニングという教育手法と結びついて展開されています。
ですが、いくら「自主性」が大事だといっても、大学生ですらなかなかまともに行われない、意識されていない研究を高校生が行うのは、教える側の教員にとっても同じく難しいことだという話をよく聞きます。
近代型の大学の中で、研究の専門化と細分化が進み、ある種のタコツボ化した現状の研究では統一化されているような分野は数知れています。
数理科学や自然科学では、一定の論理や実験法があるといっても、人文社会科学ではそう簡単にいきませんし、学問はむしろそういったマニュアル化されたものを必ずしも良しとはしません。
高大接続改革は今後の大学をめぐる議論をするにしても、重要な論点だと言えるでしょう。
確かに、研究活動を高校生が行うのは難しい側面もありますが、まだ改革に向けた努力は始まったばかりです。
Share Studyにおける取り組みも、かなり高大接続を意識して行っています。
まとめ
上記の論点提示は冒頭にも書いた通り、あくまで「大学×教育」をめぐる一整理でしかありません。
ACADEMIC CAMPを行った記録として、改めて言語化させました。
そのほか「学問」「地域」に関する現状認識は下記のリンクを参照ください。
- 大学×学問の現状認識―学問と社会をめぐる関係を考える
- 大学×地域の現状認識―経済構造の転換と人口減少社会を見据える
- 大学×教育の現状認識―歴史と社会的機能から意義を再考する