ぼくとつくば①―地域開発(まちづくり)が展開される中での「筑波」と「つくば」

こんにちは、早川公と申します。ぼくは文化人類学の視点から日本のまちづくりを研究していて、今は福井で大学教員をしています。今回はShare Studyの場を借りて、ぼくが15年過ごした街であり、研究フィールドでもあるつくばとその街の開発(まちづくり)について書きます。

「なぜつくばのことを?」と思う人もいるでしょう。これから書いていくのですが、極論を言えば、《つくば》は日本の地域開発の全てが凝縮されている地域といっても過言ではなく、《つくば》の話は多くの人に響くと思ったからです。

これから何回かに分けてつくばとまちづくりと文化人類学について書いていこうと思います。大きな流れとして、

  1. 筑波研究学園都市建設とそこで生まれた《つくば》文化
  2. まちづくりを人類学で研究すること
  3. 筑波山麓地域でのフィールドワークの随想
  4. 「人類学的」にまちづくりに関わるとは

のように進めます。

今回の記事については、《つくば》に縁のある人はもちろん、まちづくりを研究したい/しているぼくより若い世代の皆さんにも楽しんでもらえる記事になれば幸いです。

はやかわ こう

国内の「まちづくり」現象を対象に、人類学的方法や知見を社会に応用化することを使命に研究〜実践しています。フィールドは、茨城県つくば市、宮崎県世界農業遺産地域、福井県越前市です。

学生時代の筑波大学

皆さんは、つくば市を知っているでしょうか。

茨城県の南部にあり、人口は約23万人で、県内で2番目に人口規模の大きい街です。「筑波研究学園都市」開発という国家的プロジェクトが50年前に開始し、それによって「創られた」街でもあります。最近では2005年に「最後の新規路線開通」と言われたつくばエクスプレス(以下、TX)もあり、半世紀の間ずっと開発され続けている地域でもあります。

つくば市にぼくが来たのは筑波大学に入学した2000年のことでした。TXの開通前で、TXが「常磐新線」と呼ばれ、筑波研究学園都市が「陸の孤島」と形容されていた最後の時代です。

そんな陸の孤島にある筑波大学に来て一番はじめに感じたのは「自由」でした。南北4kmの広大なキャンパスと、1年生の9割がキャンパス内の宿舎に住むなんて言われた学住接近の生活。終電という概念はもちろん存在せず、東京とは2時間の「時差」がある筑波時間(東京の20時はつくばの18時)なんて言葉もありました。大学の教室も一部は施錠されておらず((当時の公式施錠時間は22:30、その後21:00になったと記憶しています。ただし、演習室のような教室は施錠後も入ることができました。あと一応、使用許可を出して活動していたと思います。))、講義終了から教室を占拠して夜中までサークル活動をする日々でした。

なぜこんなプライベートな話から始めたかというと、当時の筑波大学や大学周辺には空き教室だったり空き地だったり、終電を気にすることのない自由な時間だったり、という「余白」がたくさんあったのです。それは今思えば、開発が途中ということだったのかもしれません。陸の孤島の不便な環境は、今でいうガラバゴス化によって面白い人たちの生態系が形成されていたように思います。

例えば、新入生の宿舎用に、そこらの花壇からレンガブロックを外して集めて売りつける先輩((筑波大学生の多くは宿舎に入居するのですが、宿舎は狭いのでスペース確保のために備え付けのベッドをレンガブロックでかさ上げしてスペースを作るのが定番でした。))、宿舎祭で酒を飲みながら裸でウォークする人、サークル終了後からそのまま教室で麻雀をして1限の人が教室に来て牌を片付ける人…など、それまでの高校生活とは全く異なる人たちとの「カルチュア・ショック」が私のつくば生活の始まりでした。

研究学園都市(ガクエン)における地域開発

そんな筑波大学が開学したのは1973年(昭和48年)。「筑波研究学園都市」(ガクエン)の工事が起工したのが1969年(昭和44年)なので、筑波大学は「ガクエン」の始まりとともにある大学というわけです。総額3兆円とも言える国家開発プロジェクトでした。この開発は、「都市建設期」「都市整備期」「都市発展期」の3つの段階に分けられます。それぞれ順に大きな出来事を振り返ってみます。

1. 都市建設期(1973-1980)

第1の「都市建設期」は、おおよそ1980年(昭和55年)までと言われます。ここでは筑波大学の開学や研究施設の移転と東大通り((初めてガクエンに来た人の大部分が「トウダイドオリ」と読みますが、「ひがしおおどおり」と読みます。))、西大通りといった交通インフラの整備が進められました。

2. 都市整備期(1980-1998)

第2の段階が1998年(平成10年)までの「都市整備期」です。この段階の大きな特徴は、1985年(昭和60年)の「つくば万博」開催に象徴される「文化」的な発展です。万博開催に合わせて、建築家・磯崎新の代表作である「つくばセンタービル」や地方初と言われた筑波西武の開店((つくばの事情に明るい人は、この筑波西武が昨年閉店し跡地利用について議論の最中にある、ということを思い起こしてくれると思います。こうした現在の問題も全て繋がってくるのです。))なども相次ぎます。そして万博終了後には関係6ヶ町村による合併協議が始まり、1987年(昭和63年)に「つくば市」になりました。

3. 都市発展期(1998-2005)

そして第3に2005年までの「都市発展期」です。この時期はTX開通が大きな出来事であり、ぼくがつくばに住み始めたのもまさにこの時期になります。つくば駅建設のために周辺は常に工事中で、いつも渋滞していたのが印象に残っています。また、現在Q‘tビルがあるあたりは砂利の空き地でしたが、TXが開通する頃にはあっという間にビルができました。隣駅の研究学園駅も、「何もなかった」荒涼とした印象の空間に、あっという間に住宅やマンション、ショッピングセンターが立ち並びました。

地域に創られる「筑波」と「つくば」

こうしてガクエンはもともと「何もなかった」台地の上に、木を切り、山を均し、ため池を埋めて、街を拵(こしら)えたわけです。さっきぼくは、筑波大学は「自由」だったと言いました。でもそれは、「何もなかった」ところにできたエアポケットのような大学だからこそ、そういうことが可能だったのかもしれません。実際、大学生活を振り返ってみれば、もともと住んでいた人((こういう人を「ネイティヴ」ということもありました。))といえば宿舎風呂の受付のおじちゃんや学食・大学周辺の飲食店のおばちゃん、バイト先の人くらいしかいませんでした。つまり、大学にいるだけでは、もともと住んでいる人と会う機会というのは実は驚くほど少なかったのです。

実際、こうしたもともと住んでいる人と大学生のような移住者との「対立」は学園の開発当時から語られていました。「筑波研究学園都市の生活を記録する会」が1981年に出版した『長ぐつと星空―筑波研究学園都市の十年』((このタイトルの由来が、水はけが悪く常にぬかるんで長ぐつが欠かせない、という当時の状況を物語っています。なお今も、ガクエンは大雨が降ると至る所が水没します。))という本では、こうした「旧住民」と「新住民」の間のコミュニケーションがありあり描かれています。

こうした旧住民と新住民の「文化」の違いは、つくば市に合併後は住んでいる人びとに強く意識されるようになります。その表現が「漢字の筑波」と「ひらがなのつくば」というものです。「つくば」がガクエンで、「筑波」その周辺地域というイメージです。ここで想像されているのは、筑波山に象徴されるように昔からある伝統的な社会と、合併後のつくば市という名称が示す通り、新しくつくられた近代的な社会です。これはあくまで捉え方ですが、1998年の市の報告書の中で住民の発言として記録されています。この頃のつくば市は、こうした「筑波」と「つくば」の対立で表面化する社会問題とその対応に腐心している頃が見てとれるのです。

…と、まずは30年くらいの研究学園都市の開発を早回しで紹介しました。この後、TXの開通で「つくば」の地域イメージは大きく変わっていくことになります。それは社会の移り変わりと密接に絡んでいる状況をあらわすのです。
というわけで、次回は地域開発の進行(都市発展期)に連れて変容する地域イメージ、具体的には「つくばスタイル」というイメージを巡る話をしていきたいと思います。

ぼくとつくば②ー地域開発の中で混じり合う《つくば》

まちづくりのエスノグラフィ――《つくば》を織り合わせる人類学的実践
早川公、2018年12月19日、春風社