「批判」「評論」「批評」と呼ばれる営みがあります。このような言葉から想像される行為や姿には、何かしらの出来事やそれと関連する人々の欠点をあげつらうことや、傍観者的にコメントをする様など、ネガティブなイメージを持たれているかもしれません。
しかし、この記事では「批評」という行為に伴う、「わたし」として世界に対峙する態度に着目し、それが発揮される具体例を挙げながら、より深みのある批評について紹介します。別の記事では、学術的議論における基本的態度と方法としての「批判」についてまとめました
一方、この記事における「批評」は、広義に「わたし」が世界と対峙する姿勢に含まれる精神的働きとして紹介します。日常で抱く様々な「違和感」に気づき、それについて思考を重ね、さらにそれを基にして行為を実行すること、これら全てには「批評」的な精神が宿っています。では、具体的な例を見ながらどのようなものが「批評」とされる営みか、考えていきましょう!
「わたし」と対峙する批評
「わたし」を取り巻く違和感との対峙
批評とは、世界と自分をより正確に認識しようとする心のはたらきであり、みなさんの内部で日々<生き方をみちびく力>としてはたらいているものです。
梅田卓夫, 服部左右一, 松川由博, 清水良典 (2012[1987]: 9) 高校生のための批評入門
これは、『高校生のための批評入門』の冒頭にて書かれている文章です。一般的に、「批評」は「文芸批評」などのジャンルとして捉えられます。ですが、上述の文章では、「世界と自分をより正確に認識しようとする心のはたらき」とされています。つまり、単なるジャンルとして「評論」や「論説」を指すものではなく、それらを生み出す人の「精神」を示す記号として「批評」というものが捉えられています。
日常的にせよ、学術的にせよ、あなたが生活を送る中で出会す出来事の数々、それらを成り立たせている背景、それらに対する人々の言及や認識に「違和感」を持ったのなら、そこが「批評」の入り口となります。例えば、「なぜ学校に行って勉強しなければならないのか?」と疑問に思ったその瞬間、まさに批評的精神がはたらいているのです。「常識」とされることに対し、違和感を覚えたのなら、その瞬間に「わたし」と「世界」との対峙が始まっているとも言えます。
違和感を抱く「わたし」との対峙
ここで今一歩、考えてみましょう。なぜ「勉強しなければならないのか?」という疑問を抱いたのでしょうか?その違和感を生み出す、要因を想像してみてください。「どうやらわたしは“誰かにやらされる”勉強が嫌なのであって、“勉強そのもの”は嫌なわけではないみたいだ」とか、それを踏まえた上で「なんで“学校”という場所で勉強しなければならないのか、いつどこで誰がそんなことを決めて、どうして今もそのような慣習が続いているんだろう?」とか、もしくは「“勉強”なんてものはどうせ大人が押し付けたもので、わたしはただ友達と楽しく過ごせればいいんだ!」といった理由が考えられそうです。
違和感をただの違和感にするのではなく、その違和感に応じた「問い」を持ち、その上でさらに突き詰めて考えようとすること、あるいは突き詰めた行動に移すこと、そのプロセスにこそ鋭い批評性が宿ります。逆に、ただ単に違和感を覚えただけ、もしくはその違和感を掘り下げずに「違和感がある!」とだけ主張するだけでは単なる自己主張に留まってしまいます。
誰にでも違和感を持つ断片は「ある」、一方でその違和感を自覚しつつ、「わたし」が生きる上での「あり方」にまで昇華していくことが重要です。言い換えれば、「わたし」にとっての違和感を何かしらの「かたち」として表現し、磨き上げる気概に批評性は鋭く宿ります。
一方で、こうした違和感の追求は、否が応でも、その違和感を持ち続ける「わたし」と向き合うことにも繋がります。その追求は「世界」に対してだけではなく、「わたし」にも向けられていくことでしょう。そのような批判的態度を持とうとすることは、孤独を引き受けることにもなり得ます。
事例:ハンナ・アーレント「イエルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告」
政治哲学者として後世に名を残すハンナ・アーレントは、まさに「批評」を体現した人物でした。ユダヤ系ドイツ人の家系で育ったアーレントは、第二次世界大戦においてナチスが起こした全体主義(ファシズム)と同胞の大量虐殺(ホロコースト)に直面し、その事態に深い思考を展開した人物として知られます。そんなアーレントが、同胞であるユダヤ人からバッシングを受けた出来事がありました。そのきっかけとなったのが、『イエルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』です。
アイヒマンは、大量虐殺を行った主要施設「アウシュヴィッツ」などにユダヤ人を移送する指揮官的役割を果たした人物です。しかし、アイヒマンは自身に対する裁判で、ユダヤ人に対する迫害について「大変遺憾に思う」と述べつつ、自分は「上司の命令に従っただけだ」と主張したそうです。
これを実際に傍聴したアーレントは、アイヒマンはただ上司に命令に従う、思考力や想像力が欠如した「凡庸な悪」だと評しました。アーレントの批判には、大量殺戮を推進した(とされる)アイヒマン個人に対する批判的言及だけではなく、ユダヤ人の関連組織や活動に対する批判も含まれていました。そのため、アーレントは、ユダヤ人側の抵抗運動を貶め、ましてやホロコーストの共犯者に仕立て上げようとするものとして捉えられました (対馬, 2014: 187)。一方で、
アーレントはナチの先例のない犯罪を軽視しているわけではけっしてないが、ナチを断罪してすむ問題でもないと考えていた。また、加害者だけでなく被害者においても道徳が混乱することを、アーレントは全体主義の決定的な特徴ととらえていた。アイヒマンの無思考性と悪の凡庸さという問題は、この裁判によってアーレントがはじめて痛感した問題であった。
対馬久美子 (2014: 188) ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者
と、アイヒマン裁判とそれを取り巻く出来事の連鎖に対し批評性を発揮しつつ、ユダヤ系の友人・知人と絶縁していくことになります。しかし、アーレントはあくまで自身の徹底した思考と観察を手綱に、加害者と犠牲者との関係で成り立ってしまった全体主義と対峙し、「事実を語ること」の重要性を説いたと言えるのではないかと思います。
「歴史」と対峙する批評
批評という精神的はたらきは、周囲から「わたし」を浮き彫り立たせる一方で、その周囲との関係やそれが紡がれてきた「歴史」との対峙をも促します。
例:ISIS日本人人質事件における「自己責任論」の影で隠される歴史性
例えば、2014年から2015年にかけて起きたISIS(Islamic State of Iraq and Syria:イスラム国、あるいはダーイッシュ)による日本人人質事件では、危険地域とされる中東に赴いた日本人人質2名に対し、「自己責任である」といったバッシングが投げかけられました。この事件を報道するニュースやインターネット上の言及を見たとき、「人質の自己責任であるかどうか」を考えたとしましょう。どう応じるでしょうか。
…
ここで今一歩、考えを広げてみたいと思います。そもそも「自己責任であるか否か」という問いかけが人質に対し、なぜ投げかけられていたのでしょうか?人質となった2名が規則を破って勝手に現地に赴いたからでしょうか?それとも、誰かが「自己責任であるか否か」を問いかけていたからでしょうか?ここに二重の歴史性があると言えます。
第一に、歴史的に掘り下げれば、ISISというテロ組織が成立した背景には、帝国主義、植民地主義、グローバリズムといった不均衡な力関係が関与しています。しかし、人質に対する「自己責任」はそのような背景を捨象してしまいます。
第二に、「自己責任論」という議論はこの事件に関わらず、何度も日本社会で繰り返されてきました。特に、2004年のイラク日本人人質事件でも人質に対し「自己責任」をはじめとしたバッシングが投げかけられました。人質事件に限らず、非正規労働や孤独死、社会福祉といった「社会問題」とともに「自己責任」は語られてきました。2015年の事件に対する言及を見た人々の中には既視感を覚えた人もいることでしょう。
こうした出来事と言及の過程をより正確に捉えるためには、「歴史」に対する理解も必須です。「自己責任であるか否か」だけに違和感を持ったままでは、「自己責任」という言葉に引きずられ、歴史的過程は隠蔽され、それに参与する他者との隔たりはより広がってしまうことでしょう。
例:サイードによるオリエンタリズム、フーコーによる系譜学
次に紹介する、パレスチナ系アメリカ人のエドワード・サイードはポストコロニアル研究を牽引した人物として知られます。ポストコロニアルとは、植民地主義以降の脱植民地的な状態に関して総称されることばです。植民地主義や帝国主義といった歴史的にも支配的な地位を築いた国・地域・人々による被支配地域に対する行為・出来事・認識(広義の文化)に対して、批判的に捉える際に用いられるのがポストコロニアルです。
サイードは1978年に『オリエンタリズム』という本を著し、文芸作品・学術文献に、西洋による東洋に対する認識が投影される諸相を分析しました。その分析を通して、西洋が東洋に対して抱いてきた認識が帝国主義や植民地主義を正当化させてきたと批判的に論じています。サイードの『オリエンタリズム』に関する分析は、フランスの哲学者ミシェル・フーコーの歴史的な分析手法が参照されていることもポイントです。フーコーは、歴史的資料を調査し、「語られること」と「語られないこと」の差異や配置を分析し、日常に偏在する「権力」を批判的に読み解く術を提示した哲学者として知られます。
特に、フーコーは伝統的な「暴力的権力観」だけではなく、人々を生かすようにはたらく権力として「生-権力」を見出しました。例えば、先ほど取り上げた「学校」というものも、現代社会において、基本的には「国民国家」が設けた「生かすための権力装置」と言えます。つまり、兵器など暴力を振るって達成される権力だけでなく、人を生かすために権力は偏在して人々の暮らしに影響を与えているというわけです。こうした生-権力はなかなか可視化しにくいものです。このように見えにくいが確かに日常生活に偏在し、人々に影響を与えているものを「生-権力」と名づけたことは、まさにフーコーの批評精神が顕現した事例と言えるでしょう。こうした「歴史」「知」「権力」に対峙することで、一貫して「自己から抜け出す」哲学を展開した人物としてフーコーは捉えられてもいます(慎改, 2019)。フーコーの「主体」に関する批判的なまなざしは、批評という営みが「わたし」から始まる違和感から生じ、それが「歴史」と対峙しつつ、「わたし」に帰るプロセスを指し示している、とも言えそうです。
おわりに
批評と呼ばれる精神的なはたらきや具体例を少しばかり紹介しました。もちろん、これらはその一部であり、その他にもたくさんの「批評」と呼ばれる営みがあります。特に今回は、ジャンルとしての「文芸批評」や、現代の情報メディア環境における「(文芸に限らずの)批評の拡張性」についてはほとんど触れていません。
一方、「わたし」にとっての違和感の断片を捕まえ、突き詰めて向き合おうとしたとき、図らずも「歴史」と出会い、また「わたし」と向き合っていくことは、批評にとって基本的かつ不可避な過程と言えます。正直、こうした事態を引き受けるのはなかなか荷が重いことこの上ありません。個人的には、それを踏まえつつ、「うるせぇー、わたしは知らん!自分が楽しいと思えることをやる!その上でやれることはやる!」と踏ん切りをつけ、淡々と仕事をこなす様も立派な批評的態度のように思います。ただ、個人的な見解ですが、「事実を語る」というアーレントの姿勢には批評性を鈍らせない上で重要な示唆があるようにも思います。
そのような「事実」は、決して過去だけにあるのではなく、未来に投影されるユートピアでもなく、「今ここ」でそれらがないまぜに起きている出来事なのではないでしょうか。この記事にも、あなたにとってのたくさんの違和感が入り込んでいるはずです。その違和感を突き詰めるきっかけ、または一助になったのなら幸いです。
参考文献
- 梅田卓夫, 服部左右一, 松川由博, 清水良典 (2012 [1987])『高校生のための批評入門』ちくま学芸文庫
- 対馬久美子 (2014) 『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』中公新書
- サイード, エドワード (1993 [1986, 1978])『オリエンタリズム』平凡社ライブラリー
- 慎改康之 (2019) 『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学』岩波新書
読書案内
この記事で紹介したように、批評を「評論」や「論説」といったジャンルとしてではなく、物事に対し批判的に対峙する際の精神的はたらきとして、51編の文章とその読解例が紹介されている書籍です。短い文章ながら、示唆に富む例文が集められています。中には、平易なことばで哲学的思考の要点を表現しているものから、ある人の人生で起きた出来事に批評性を発揮するエッセイがあります。想像と思考を膨らませるお供となり得る書籍としておすすめします。
さまざまなマルチメディアが展開される現代社会において、「歴史」を捉えることはいかなることかを考えさせてくれる書籍です。小説・写真・映画・インターネットなど、各メディア媒体とそれが再生産する「歴史像」を批判的に検討する内容となっています。著者が語る「歴史に対する真摯さ」とは何で、それが求められることの社会的背景に対する考察をしてみてください。
『オリエンタリズム』を著したエドワード・サイードによる講演を書籍化したものです。サイードは、「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である」と語ります。常にアウトサイダーとして自らの批評精神を維持しようとするこの姿勢は、単に「知識人」を論じているものとしてではなく、読者の知的姿勢に対する厳しい問いかけにもなっています。
おまけ―ハンナ・アーレントの伝記映画
この映画では、アーレントがアイヒマン裁判を傍聴し、バッシングを受けるに至った経緯が中心に描かれています。アーレントの叙述は、難解で有名です。まず手始めにアーレント入門としてこの映画を視聴してみてください。アーレントが生きた時代とそこで起きた出来事を中心に、第二次世界大戦で起きた惨劇が鋭い批評性を必要とした背景を想像するきっかけになるでしょう。