こんにちは、早川です。この連載も3回目になりました。第1回、第2回では、つくばという地域空間の変容を筑波研究学園都市(概念的な空間イメージとして「ガクエン」と表記します)の側からみてきましたが、今回はそれを筑波山麓地域(ガクエンに対置する概念として「サンロク」と表記します)の側からみてみたいと思います。
というのも、ぼくの《つくば》研究は、基本的にサンロクでのフィールドワークに基づいているからです。前回までの記事では、ともすれば、
・ガクエン=つくば=近代=進歩的
・サンロク=筑波=伝統=後進的
という構図で語られがちな状況をみてきましたが、歴史的経緯も含めてサンロクから見える開発の風景はまったくといっていいほど異なるからです。そうではないと、某SNSで散見されるような、まるで「ガクエンの外は未開」のような自文化中心主義の偏見のレンズで《つくば》をみてしまうことにつながるからです。
さて、それではサンロクから見える開発をみていきましょう。
サンロクとはどこか
現在、筑波山麓地域と呼ばれるのは、つくば市を構成する6ヶ町村区分のうち、旧筑波町に区分される地域内にあります。なかでも、「昭和の大合併」以前の区分でいう、筑波町((合併後の筑波町と区別するために、地元の人たちは筑波地区を「上筑波」と呼ぶことがあります。))、田井村、北条町、小田村にかかる地域がサンロクと呼ばれます。
筑波山および筑波山神社は筑波地区にあり、さらにそこまではふもとの北条地区から田井地区を通って神社へとつながる「つくば道」でつながっています。つくば道は、もともと徳川家光の時代に筑波山知足院中禅寺建設のための資材運搬路でしたが、その後は参詣道として栄えました。1986年には「日本の道100選」にも選定されています。まだ小田地区は、鎌倉時代の小田城跡でも有名ですが、明治以後は筑波鉄道の経由地でもあり、それは小田地区、北条地区、筑波地区をつないでいました。筑波鉄道は1987年に廃止されましたが、今は「りんりんロード」として多くのサイクリストに親しまれています。
筑波の中心としての北条
このように、つくば道も筑波鉄道もかつての主要交通だったわけですが、そのどちらも通っているのが北条地区です。北条地区は、役場や警察署が置かれ、そして商店街が形成されている、旧筑波町の政治・経済の中心地でした。左の写真は1970年(昭和45年)頃の北条商店街ですが、飾り付けられた商店街の中を児童、生徒が街を歩き人びとがゆきかう様がみてとれます。
マチバとアクトとノガタ
サンロクには、ガクエンの開発以前からそこに根ざした生活がありました((一応補足しておくと、ガクエンが建設された旧谷田部町や旧桜村にももともとの地域社会は存在していました。ただし、サンロクはガクエンの開発の影響をそれらの地域より受けなかった、という話です。))。とくに北条地区は筑波町の中心地であり、商店街は「マチバ(街場)」と呼ばれ、マチバの周囲には農村地域がありました。
ところで、サンロクを語るときに必ずついてまわるのが筑波山の「豊かさ」に関する話です。この由来は『常陸国風土記』まで遡るのですが(ここでは省略)、筑波山のふもとは気候や水や土地に恵まれ作物が豊富です。「リンゴの南限、ミカンの北限」という語り口もその一つですし、その象徴がブランド米の筑波北条米です。筑波北条米は、この地区を流れる桜川の流域東側で栽培されるコシヒカリのみに許される呼称であり、皇室献上米だった時代もあるほどです。
マチバの周りに広がる豊かな土地。それを地元の人は「アクト(肥土)」と呼びます。筑波山のふもとで恵まれた土地で育まれた歴史や文化を誇らしく語る様((さらにいうと、サンロクの人たちのお米自慢はもっともっと局所的です。「どこどこの地区にあるXX川の水を引いた誰誰さんの田んぼ」のような形で自分が食べているコメを表現するのは、ワインの産地自慢に似た趣を感じますよね。))は、フィールドワーク開始初期のぼくにとってとても印象的でした。
そんなサンロクに対して、今のガクエンがある地域は土地が痩せていて豊かではない、と評されることがあります。ぼくが聞いたときは、「アクト」に対して「ノガタ(野方)」と表現していました。だからこそ、サンロクから見れば、サンロクが歴史や文化のある「豊かな」地域で、ガクエンが「何もないところにできた歴史のないまち」であるとも言えます。
逆に新しい―「一周回って新しくなる」という現象
そんなサンロクに、まちづくりプロジェクトでは、ぼくを含めたガクエンの学生が多く関わっていました。そんな中で関わってまず驚くのは、「想像していた田舎」ではないことです。たしかに、商店街には「寂れた」雰囲気があったり、自分たちのマチを否定的に語る人もいたりします。ただ通り過ぎるだけではその良さは見えづらいでしょう。けれども、もう少し踏み込んで、地元の人と話したり家に案内してもらうと、その上品さに驚かされます。自分自身、強い自覚はなくても、どこかには「ガクエン=近代=都会」で、「サンロク=伝統=田舎」という図式があったのかもしれません。それを象徴する次の言葉は、当時(2008年)にぼくたちが学生が北条米を使ったアイスクリームの商品開発をしていた時に、学生の一人が話した言葉です。
北条は落ち着くし庶民的なところももちろんあるけど、結構気品を感じますよね。例えば、奥様がたとか。田舎っぽくなくて上品だし。イベントの時に出される漬物も、柚子が挟んであったり上品な工夫がされていて、「漬物」じゃなくて「御(・)漬物」って感じで。だから、庶民的な落ち着く感じと、気品があって高級ってのも両方あっていいと思う。
それまで(良くも悪くも)なんとなく持っていた「田舎らしさ」みたいなものを覆すような現場に遭遇した時、学生たちはよく「逆に新しい」と表現しました。それは、自分たちが知らない調理法を知っているとか、見たことない設えの家具を見たときとか、婚姻に関する儀礼の昔話を聞いた時などに学生から漏れる言葉です。
この「古き良き」ではなく「逆に新しい」という表現を、ぼくはとても気に入っています。第2回の記事でも見たように、里山に息づく生活や文化は「最先端のライフスタイル」と表現されていました。このことは、これまで近代日本を支えてきたものとは別の価値観をサンロクに見出していることにつながります。単に経済発展の中で忘れて来た、失ってきたものを懐古するのではなく、「一周回って新しくなる」というこの感覚は、それが少し先の未来とむすびついた概念になっているからです。
再帰性―近代化と大きな物語
「一周回って新しくなる」とは、それが意識化されて自分や自分が生きる社会と関係づけられていることを意味します。これを人文社会科学では「再帰性(reflexivity)」と言います。この再帰性は、高度化・複雑化した現代社会の大きな特徴であると言われていて((再帰性の代表的な論者に、イギリスの社会学者ギデンズがいます。彼の著作はたくさん翻訳されていて日本語でも読めますが、再帰性に関しては、(A. ギデンズ(1993)『近代とはいかなる時代か? ─モダニティの帰結』松尾精文・小幡正敏[訳]、而立書房)を読むといいかと思います。))、ぼくの《つくば》を研究する問題意識の根底にあるものでした。さらにそれは、(Share Studyの重要なテーマである)学問と社会の関係を考える際にも重要な概念になってきます。なぜなら、現代社会においては、無垢で純粋な認識というのは基本的にありえず、人びとは絶えず自己と自己を取り巻く環境との関係を意識しながら生活していくからです。それは、「近代化」という技術革新や人間観の刷新の中で信じられていた「大きな物語」の問題点や行き詰まりが顕在化してきた時代的状況と無関係ではありません(このあたりは次回も関連して説明します)。そして、ぼくの一応の専門である文化人類学も、人を対象にする学問である以上、再帰性の問題を抜きには語れないのです。
以上、三回の記事で、《つくば》をめぐる地域認識の変容の過程を見ていくことで、再帰性というワードにたどり着きました。そんな再帰的な状況で、ぼくたちはどういう風にまちづくりという対象と向き合っていけばいいのか。次回は、それを文化人類学という学問から考えていこうと思います。
まちづくりと人類学―文化現象・社会的行為としてのまちづくり
- ぼくとつくば―地域開発(まちづくり)が展開される中での「筑波」と「つくば」
- ぼくとつくば②ー地域開発の中で混じり合う《つくば》
- ぼくとつくば③―「逆に新しい(=再帰的)」まち・北条
- まちづくりと人類学―文化現象・社会的行為としてのまちづくり
- まちづくりと人類学的実践―毎日フィールドワークのすすめ