これまで、SUIJI-SLPの紹介、三人の参加した学生と一人の先生へのインタビューの記事を書いてきた。最後にこれらの記事を踏まえて自身のSUIJI-SLPへの考え、「課題解決に捉われすぎる事をやめよう」という事について書いていきたい。
サービス=社会貢献活動、ラーニング=学び
まず、SUIJI-SLPのSLPとは何かについて振り返ろう。SLPとはService Learning Programの略である。サービスラーニングとはコミュニティでの社会貢献活動を通して学生の学びを深め、市民性を高める教育方法である。大学1, 2年生を対象にしたプログラムである。サービスは「社会貢献活動」、ラーニングは「学び」である((もちろん、現実にはこの二つははっきりと二分できる物ではない。あくまで授業を組み立てるうえでの考え方の話である。))。プログラムでは、地域課題の解決のステップとして、ベーシックコースは「地域・仲間にまみれる」、「掘り下げる」、アドバンスドコースは「行動を起こす」、「共に創る」が設定されている。
インタビューを通じて見えてきたもの
インタビューを通じて学生が共通に口にしたのは「学ぶ楽しさ」であった。現場での地域の人へのインタビューや共同作業を通じて物事を掘り下げていくことが楽しいと語っていた自分自身が興味を持ったことに、聞いていく学びが重要であった。そして、それら現場での学びの楽しみが地域との継続的な交流を生み出してもいた。また、プログラムへの参加は海外に興味を持っている学生が日本の地域に、日本の地域に興味を持っている学生が海外に、興味を向けるきっかけともなっていた。
これを踏まえると、SUIJI-SLPには以下の2つの教育的な成果があると考えられる。一つ目は学生が自らの興味で探求する楽しさを感じることである。この探求する楽しさを1, 2年生に時に感じられることは、その後の大学での学びにも大きな影響を与えるだろう。もう一つは日本の地域、海外の地域で実習を行う事によって、海外に興味がある学生と地域に興味がある学生を混ぜることである。私の大学だけかもしれないが、日本の地域に興味がある学生が海外に行くこと、海外に興味がある地域に行き、それぞれ興味が異なる人が交流する機会は少ない。SUIJI-SLPに参加することによって、海外/日本の枠組みにとらわれ過ぎない、思考を身に着けることができるのではないだろうか。
SUIJI-SLPの課題
前節ではSUIJI-SLPの良い点について考えた。次に、私の考える、SUIJI-SLPの課題について述べる。私はSUIJI-SLPの課題として、「学生が課題解決を意識しすぎる」ことがあると考えている。私が参加した国内の実習の成果発表では、「地域に〇〇という課題がありました、そのためこのような解決策の提案を行いました」、「〇〇という課題がありました、そのためにこのような解決を行いました」、という物が殆どであった((もちろん、地域から〇〇をしてほしいという要望があればできる範囲でやるべきであろ。しかし、サービスはラーニングの手段という側面を忘れてはいけないと考える。))。
しかし、実習において、「課題解決」をしないといけないわけではない。また、成果発表でも「~という課題に対して~という解決策を提案します or 行動をしました」という形であるという決まりもない。けれど、成果発表では以上のような課題解決を行った、という成果発表がほとんどであった。このような、「学生が課題解決を意識しすぎる」ことは、実習において次の二つの問題を引き起こすと考えている。
問題①わかりやすさに捉われる
一つは、わかりやすさに飛びついてしまうことである。僕が参加したSUIJI-SLPでは、人口減少を解決するために地域をSNSでアピールする。産業を作るために、自然を生かして観光を行う、という提案が見られたりした。正直に言うと、私はあまりにも単純だと感じてしまった。自然を観光資源にしてアピールと言うが、日本全国の田舎に自然はある。つまり、「自然がある」だけではその地域の特徴をとらえていないのだ。私は学生は課題解決を意識するあまり、目の前の派手な課題に捉われて、地域でのフィールドワークで見つけられる「面白いもの」を見逃してしまっていると感じた。その「面白いもの」は一見、課題解決につながらないように見えるかもしれない。その結果、学生はだれでも、どこでも言える所で止まってしまってしまい、自分のテーマを見つけるというフィールドワークの醍醐味を味わえていないのではないだろうか。
問題②関わりを躊躇してしまう
もう一つは私が抱えていた問題、地域の人々との関わりを躊躇してしまうことである。矢野さんはインタビューでSUIJI-SLPの負のスパイラルについて語っていた。負のスパイラルとは必要以上に課題解決を意識するあまり、SUIJI-SLPで行っているサービスが地域社会の課題の根本的な解決につながるのか?という問いで身動きが取れなくなってしまうことである。これらの問いは非常に重要である。しかし、私はこの問いに捉われすぎてしまい、私が地域に入る意味がないという自己否定にまで陥っていた。地域に貢献できない私が人の住む場所に踏み入るべきではないと考えていた。私が一, 二回生の時にSUIJI-SLPに参加しなかったのは、十日間では地域の課題は何も解決できないと感じてSUIJI-SLPに参加するのが無駄に思えたからである。
また、私は地域の人に「お前は地域に何ができるのか」と問われた事があった。その時、私は「自分は何もできない、じゃあもう関わらないほうがいいな」と心に負のシャッターをガシャンと下ろしそうになった。関わりが浅い状況で課題解決を過剰に考えすぎる事は地域にいる自分自身を否定することにつながり、地域と関わる最初の一歩をつぶす可能性がある。また、貢献したいという思いだけの地域との関わりは長続きしないだろう。
なぜ、「課題解決を意識しすぎる」のか?
学生が「課題解決を意識しすぎる」ことの問題点を書いた。しかし、そもそも、なぜ学生は「課題解決を意識しすぎる」のだろうか?強調するが、学生は実習中において、課題解決をしなさいと言われているわけではない。その学生が感じる何かよくわからないが課題を解決しなければならないという空気感はどこからくるのだろうか?
理由①プログラムの最終目的が地域課題を解決する人材を育てることだから
SUIJI-SLPは地域課題を解決する人材を育てることを最終的な目標に掲げている。そのため、最終的な目標である「地域の課題の解決」を意識しすぎ、学生は最初のステップである、「地域・仲間にまみれる」、「掘り下げる」を重要視していないのではないか。
理由②課題の持つ引力
地域に入ると様々な課題が目に入る。例えば、人口減少・少子高齢化・耕作放棄地の増加である。優しく、素直な学生はそれらを目にすると、何かしてあげたいと思ってしまう、実習期間中に何かできないかと思ってしまう。その結果、課題解決に目と頭が行き過ぎてしまうのではないか。
正直にいうと、この何かよくわからないが課題を解決しないといけないという空気感はどこからくるのだろうか?という問いに対して、これらの答えが十分であるとは思っていない。この問題は引き続き考えていかなければならないと考えている。
学生であることの価値とは?
学生が「課題解決を意識しすぎる」と書いてきた。私は、むしろ課題解決にこだわらない方が学生にも地域にも良いのではないかと考えている。
学生側からの目線でみると、課題解決に捉われずに自分自身のテーマを持ち、それを掘り下げることは大学での「学ぶ楽しさ」を味わえる良い機会になる。その「学ぶ楽しさ」が地域との継続的なつながりや、大学での学びの姿勢への良い影響につながると考える。それが実習での活動が学生の自由に決められる、というSUIJI-SLPの強みを生かすことにつながるのだ。
地域からはどうだろうか。長くなるが地域づくりに取り組んでいる、二人の著者の本から文を引用する。福島のいわき市で地域作りを行っている小松理虔は著書の『新復興論』で以下のように語っている。
私がこの浜通りで見てきた物は、現場における思想の不在であった。一〇〇年先の未来を創造することなく、現実のリアリティに縛り付けられ、小さな議論に終始し、当事者以外の声に耳を傾けようとしない。
今に至って、ようやく私は気づかされた。復興には誤配がないのだ。復興は分かりきった人に分かりきった答えしかもたらさない。そこには未来がない。外部がない。つまり、どこにもいけないのだ。((小松理虔(2018)『新復興論』ゲンロン叢書、P11))
地域づくりも同じだろう。地域づくりに必要な人を「ヨソモノ・ワカモノ・バカモノ」と言う。この三つを言い換えれば、そのまま「外部・未来・ふまじめ」になる。当然、被災した土地の未来はそこに暮らす人が決めるべきだし、あやしいコンサルの話を聞く必要もない。しかし、地域の決断は「今この私」と「外部・未来・ふまじめ」を何度も何度も往復した末にあるべきだ。((小松理虔(2018)『新復興論』ゲンロン叢書、P382-P383))
また、Share Studyでも寄稿している早川公は、『まちづくりのエスノグラフィ ≪つくば≫をおりあわせる人類学的実践』でまちづくりにおける学生という存在を以下のように語っている。
北条地区におけるまちづくりでは、活動のいたるところで「しがらみ」と表現される否定的な関係がプロジェクトの進行を阻んでいた。ある面において学生はそれを無意識的に超える存在であったが、この可能性を再帰的に考えるのであれば、人類学的実践としての「かたどる」には、外部者性を利用して「あえて」知らない振りをしてその境界線を越え、人々のもつれをほどくことも含まれる。((早川公(2018)『まちづくりのエスノグラフィ ≪つくば≫をおりあわせる人類学的実践』春風社、282P))
小松(2018)は福島県いわき市での自身の地域作りの経験から、現実のリアリティに縛り付けられないために、「外部、未来、ふまじめ」が重要であると述べ、早川(2018)は学生は外部者性を利用して、「あえて」知らないふりをして、「しがらみ」をほどく役割を担っていると述べている。
日本の地方、特に農山村は人口が減少し、耕作放棄地も増加している。それは実習に行くと、圧倒的なリアリティでそれを突き付けられる。それらは深刻な問題である。それこそ、村がなくなるほどのものだ。しかし、私たち学生がその課題のリアリティに縛られすぎるのは違うのではないか。それらを「あえて」知らない振りをして、ほかのもっと面白い地域の魅力を探せるのが、私たち学生の良いところだと私は思う。
上の引用に重ねると、大学生は「外部」であり、「未来」であるのだから。そして、ふまじめさとは、各個人が地域課題の一般論に縛られずに自分の興味のままに掘り下げていくことである。それは自分自身のテーマを持ち掘り下げるという、フィールドワークの面白さと重なる。つまり、フィールドワークを真面目にやることが、SUIJI-SLPの特色を生かす学生に対する教育であり、長い年月で見たときに地域貢献につながることと考える。
もちろん、それはあえて行うことによる地域に対する配慮、礼儀は必要である事に注意する必要がある。外部だから何をしてもいいという事ではない。悪い意味での開き直りになってはいけないことは重要である。
まとめ
SUIJI-SLPでは学生は現場から学ぶ楽しさを、実習を作る過程から主体的に動くことを、インドネシアの学生との議論から異文化との出会いを得ている。もちろん、この授業に合わないと感じる学生もいるであろう。しかし、少なくとも今回インタビューした学生にとってSUIJI-SLPは学生生活で成長をした場の一つである。私もその一人である。
一方で、SUIJI-SLPには改善するべきことがある。それは学生が課題解決を必要以上に考えていることである。その結果、地域の面白い事を見逃し、自分の興味のままに掘り下げられるという学生ならではの特徴を失っていると私は考える。きちんと地域と向き合ってフィールドワークを行い、あえて自分の興味のままに掘り下げる事が必要なのではないだろうか。自由に自分のテーマを掘り下げられる場所があるとき、「課題解決に捉われすぎない」が重要なのだ((おそらく、学生自身に自由なテーマを見つけさせて深めさせる形の授業か、適切な課題を設定してそれに取り組ませる形のどちらかを選ばなければならないのであろう。今のSIIJI-SLPはそのどちらでもない、中途半端な位置にあると考えている。))。
最後に
読者の中にはなぜ私が一学生に過ぎないのに、実習自体の事をここまで考えているのかと感じた人もいるだろう。実習での授業では学生もプレイヤーである。そうであるならば、どのように学ぶかは学生自身も考えていかなければならない。私はそれが次に参加する学生の地域でのより意味のある学びにつながると考えているからだ。最後になるが、SUJI-SLPを受け入れてくださっている地域の皆さんに感謝を述べたい。地域の方は、この記事が学びの視点で書いたため、地域側の視点が少ないと不満に感じてしまうかもしれない。その点は申し訳なく思っている。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。