Youtube LIVEのコメントが指示するもの ことばに「意味」を与えてしまう出来事・文脈に関する一考察

「ことばは生き物」という文言は、僕が常日頃お世話になっている先生が時折こぼすことばです。ここで「言語」ではなく、「ことば」とされていることにはある特有の意味が込められています。一般的に「言語学」では、実際に用いられる「ことばの意味」よりも、より普遍的・形式的な言語構造を成り立たせるメカニズムを対象に(科学的な)研究を進めます。一方で、ここでいう「ことば」とは、「言語学」が対象とするような文法体系も含めつつ、実際に用いられる言語コミュニケーションをも包括して捉える概念です。この説明そのものに見られるように、「ことばの意味」は、前提となる文脈を踏まえながらも、新たな意味創造が為されていく過程をも射程に含んで捉えられるものです。

というわけで、そのような考えを共有する学問分野を土台に研究するのが、Share Study代表のとしちるです。主だった学問分野は言語人類学で、より広くは社会文化とことばの関係を取り扱う「ディスコース研究」を専門としています。このディスコースは、先ほど紹介したことば観を持ちつつ、特有の文脈の中で行為として為される言語コミュニケーションを指します。

この記事では、としちるがコロナ禍のYoutube LIVEを眺めた際に出会ったコメントをディスコース研究の観点から考察します。そのコメントとは、とある有名なプロゲーマーの実況動画で、その実況者に対し一観客が「ある助け」を求める内容でした。しかし、それはYoutube LIVEで流れたため、その他のコメントに埋もれて瞬く間に消え去ってしまい、またその実況者に取り上げられることもありませんでした。僕はそのコメントを見た瞬間、一瞬思考が止まり、またこうして書き上げるように時折思い出しもしながらふとその「意味」を考えていました。前述したように、「ことばは生き物」です。そこで、この記事では、そのコメントと文脈を振り返りながら、身勝手にも新たな「意味」を与えてみたいと思います。

としちる

日本サッカー協会に所属するコーチを目指して筑波大学体育専門学群を目指すも、宅浪生活2年間を送った後、国際総合学類に入学。現在、同大学院国際日本研究専攻所属。タイにて日本語指導と留学も経験。専門はディスコース研究。全国47都道府県をめぐり、「これからの大学(学問×地域×教育)を考えるACADEMIC CAMP!」を主催。「教養」をテーマに活動中。

ADVENT CALENDAR 2020―1日の投稿

12月1日から24日までクリスマスを待つまでに1日に1つカレンダーを空けるという風習に習って、記事を投稿するイベント、それがADVENT CALENDAR!

コロナ禍でハマったe-sportsとYoutube LIVEで目に止まったコメント

先ほど見ていたYoutube LIVEとは、Nephrite(ネフライト)と呼ばれるe-sports「FORTNITE(フォートナイト) 」のプロゲーマーとして活躍する選手が実況していたものでした。自分は、5月上旬に提出したとある研究申請の締め切りを終えたものの、コロナ禍で特に何かすることもできずにいた中で、シェアスタッフであるゆうすけに紹介してもらったのがフォートナイトでした。この記事を読んでいる方で、知っている人も少ないでしょうが、僕はNintendo 64において有名なFPS(一人称視点のシューティングゲーム)「007 ゴールデンアイ」にハマって友人と遊んでいた小学生時代を送っていました。久しぶりのFPSにハマり、5月下旬から7月上旬くらいまでよく遊んでいました。

かつて自分はサッカー小僧としてスポーツにも親しんできたため、純粋にe-sportsと呼ばれるものがどのように成り立っているのかには興味があったこともフォートナイトに手を付けた一因です。それをやってみたところ、操作は非常に難しく、細かな銃口の照準合わせから素早く丁寧な指の反射神経がプレイには求められるものでした。「なるほど、確かに強いプレイヤーがネット配信すればそれを閲覧・応援する観客は生まれるな…」と実感。負けず嫌いな自分は、時たまYoutube動画を見て練習をするようになっていました。

フォートナイトは、基本プレイ無料、課金するのもコスチュームといったアイテムのみ、個性豊かなキャラクター造形や自分でクリエイトしながらステージや遊びを楽しめるといった仕様で、広く小中高生からゲームに勤しむように上手く作り込まれているゲームシステムです。そのため、Youtubeでは、プロゲーマーが投稿する動画から、ゲームの仕様を活かしておふざけしながら楽しむ動画など、多種多様に親しまれています。

そんなフォートナイトでは、ワンタイムイベントと呼ばれるゲーム内で不定期に行われるイベントが起こります。普段、戦っているステージに特殊な演出が施されながら、次なるステージへと変化する様子を普段は敵同士のプレイヤーと楽しむのがワンタイムイベントです。初めてワンタイムイベントに参加した時、それを実況するネフライト選手のYoutube LIVEで出会ったのが上述したコメントでした。

その内容は、完全には一致していませんが、思い出してみると

「ネフライトさん、友達が滑舌の悪さでいじめられているんです!助けてください!」

でした。

コメントが「意味」するもの 「叫び」だったのか「逃げ」だったのか?

このコメントを見た瞬間、久しぶりのゲームに興じていた自分から引き剥がされるように神妙な気持ちを抱きました。補足すると、そのネフライト選手は「滑舌の悪さ」で有名です。ネガティブに捉えられているというよりも、持ち前のプレイを披露しながら楽しそうにゲームを楽しむ様子から、むしろ観客はその滑舌の悪さを親しみを込めていじったり、本人や動画の編集者も敢えて押し出したりしています。その文脈を踏まえると、先ほどのコメントをしたユーザーは、「滑舌が悪かろうと活躍するネフライトさんなら、滑舌の悪さを理由に『いじめる』子どもを諫めてくれるだろう」と考えたのかもしれません。もしそうであるなら、そんな事態をなんとかするために助けを求めた勇気あるユーザーの行為と言えるかもしれません。

この話題をシェアスタッフのもっちに振ったとき、彼は「むしろ、それは無数に流れ去るコメントだからこそ『安心感』を持って、なんとかしたフリをしていたんじゃないか」とコメントしました。冷静に考えれば、Youtubeの実況者として自身も観客も楽しんでいたところに、その「ノリ」を崩すようなコメントを敢えて取り上げることは考えづらいはずです。もっちが言う通り、流れて消え去ってしまう中にコメントをするということは、そのことばを放つ当事者性を隠すことでもあります。その助けを求める文脈が実況者には読めない中で、その「いじめ」の関係者がその只中で生きるにあたって、ある程度は慎重な対応をする必要があることは容易に想像できます。さらに言えば、そうした文脈をお互いに共有し、考えられるような「時間」が生じないのが、このYoutube LIVEという環境の特徴でした。このコメントという出来事が「意味」するものは、勇気ある一歩を踏み出した「叫び」だったのでしょうか?それとも、ただ情報の渦の中で勇気あるフリをした「逃げ」だったのでしょうか?

巻き込まれてしまう「意味」を継承する

いずれにせよ、その「真実」はわかりません。あえて言うなら、「どちらの」意味も含み込まれ、少なくとも今の僕には知り得ない文脈があるのだろうと思います。そのコメントをした当事者にせよ、そのコメントを解釈した僕らにせよ、あるいはこうして記事として新たな文脈が作られたものを読む人々にとっても、どうやら出来事と文脈に巻き込まれながら「意味」が作られるようです。

この出来事を別の視点から考えてみます。鬱屈とした過去・現実の経験を介して何らかの違和感を抱えた人が何かにそのエネルギーを注ぎ込むのではなく、むしろYoutubeのような日常的に浸透した消費的コンテンツに充足する人が数多くいる一方で、いじめの関係者があげるような「生の声」は掻き消されている、あるいは背景化しているということです。

SNSをはじめとした情報メディア環境が浸透したから、そのような「生の声」が消えたわけではないでしょう。いかなる時にも、社会的な抑圧は偏在して起こりうるものです。その点に関して、僕はあまり人間を信用していません。むしろ、重要なのは少なくともそうした「出来事がある」ということを素直に認識することのような気さえします。

そうだと仮定するならば、僕はあえてそのコメントに出会してしまったことを積極的に「意味」づけたいと思います。その一つが、こうした記事を書くことです。もし僕がそのコメントをした人に声をかけるなら、「少なくとも何かを為そうと『ことば』にしてしまったその反応を次なる一歩に紡げればいいんじゃないか」と言います。確かに、掻き消えてしまったコメントに意味はないかもしれませんが、僕がこうして記事にするように「意味」は勝手に紡がれます。少なくとも、そうした可能性のような何かは消してしまわないように、また自分のディスコース研究と向き合おうと思います。

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