建設的、学術的というShare-Studyさんの目的からすればあまりにもケーススタディや、個別の体験談に近いものになっているもので、参考資料も少ない点をお許し願いたい。
ADVENT CALENDAR 2018―15日の投稿

12月1日から24日までクリスマスを待つまでに1日に1つカレンダーを空けるという風習に習って、記事を投稿するイベント、それがADVENT CALENDAR!
サイエンスコミュニケーションを実践してきた所感
2011年の東日本大震災および福島第一原発事故はサイエンスコミュニケーションの重要性を知らしめた例として引き合いに出される(ていた)ものとして、私の中で印象に深い。実際、サイエンスコミュニケーションの重要性の根拠として、本来は科学が一般市民に親しまれ、相互の信頼のもとに進められるべきところが、高度な専門化等を経るなかで、一般市民から遠く離れ、隔絶したものとなってしまったことは否定しづらい。また、原発のような高度な科学の成果ゆえの大規模な事故が、一般市民にとって科学技術への不信感につながったと言われても、これまた否定しづらく、市民と科学の距離感を縮める意味で、「サイエンスコミュニケーション」が重要な役割を担うものとしてある、というのは非常に説得力のある内容である。また、私は東大のサイエンスコミュニケーションサークルに所属していたが、当該サークルの学生の間では「理科離れ」など、教育問題への関心が高い学生も多く、実際、科学コミュニケーション活動は理科教育とも相性のいいもののように見える。
サイエンスコミュニケーションが処方箋になりうるのか?―二つの問題点
しかし、そのような、サイエンスコミュニケーションの重要性を訴えることや、サイエンスコミュニケーションに処方箋を見出そうとする類の諸問題に対して、サイエンスコミュニケーションが処方箋として機能すると考えるのは早計ではないか、というのが私の認識である。もっとも、サイエンスコミュニケーションに取り組む人たちが各々、問題意識を持って取り組んでいるのは体感的にも事実として受け取っているし、彼らの努力が実を結ばないだろう、などというつもりは毛頭ない。そのあたりも後に詳しく述べていきたい。
サイエンスコミュニケーションは諸問題に対して重要な役割を担っている、ということじたいは私も同意する。とはいっても、「サイエンスコミュニケーションの重要性」とされる諸問題でサイエンスコミュニケーションが処方箋としていかがなものか、と考えているわけだ。根拠はいくつかあるが、私の中で大きくまとめれば2つある。1つ目はコミュニケーションというものに本質的に根ざした問題で、もう1つは、科学というテーマにまつわる問題である。
①コミュニケーションの問題
そもそもの「コミュニケーション」についてちゃんと考えておきたい。サイエンスコミュニケーションに限らず、「コミュニケーション」というからには、なんらかの分野ないし考え方、立場で知識を相対的に多く持つ人(サイエンスコミュニケーションではたびたび「専門家」と言われる)と、相対的に少ない人(同じくたびたび「一般市民」と言われる)がいて、知識の多い人が少ない人に対して知識を流す営みが本質的にある。ここで発言をする人がどんな発言をするのかは、その発言者の発言したいという意思のほか、技術や能力、さらには発言者の政治的立場(わかりやすい例であれば大型研究の推進者であるケースなどがあるが、実際上は、その発言者が活動する上で他者との関係性の都合から要請される条件)もまた、発言内容を大きく左右するし、実際には加えて、聞き手の興味や関心を察知して話を組み立てるものである。
また、聞き手も、自分の過去の経験等を踏まえて、発言者の発言を理解しようとする。したがって、発言者の発言がそれと馴染まないものであれば、発言を正しく理解し認識するのは困難である。理科教育に関する研究などで一定程度研究されている概念として、その人が成長する過程で身につけてきた観念として「素朴概念」と呼ばれるものがあると知られている。初等中等の理科教育では、なんらかの問題に対して、個人のもつ素朴概念の導く結果が科学の結果と衝突することが、科学教育上の大きな障害になる、というのである。素朴概念の例は上記の問題の一例だろう。素朴概念は「過去の経験等」と対応するものであり、科学教育で教えられる科学が「発言者の発言」と対応がついている。いずれにせよ自己の経験と馴染まない発言を正しく理解するのは多くの労力を要する。
このことに聞き手が労力を割く意思がある場合については、発言者側の歩み寄りによってこの障壁を超えることも期待できるが、多くの場合に期待できないだろう。科学イベントや、説明会といった類のものは通常「その場で納得できる」ように構成されているし、実際、それが求められている。しかし、そんな1日で納得できる話は、個人の過去の経験に即した範囲とほとんど変わらず、過去の経験と即さない部分はうまくごまかされているに過ぎないだろう。もしそこがうまくいくのであれば、何年もかけて行われる理科教育で素朴概念が問題になるであろうか?
サイエンスコミュニケーションでなにか新しいことを模索してイベント等を実行する場合にもこの点は大きな障壁になりうる。つまり、大きく斬新的で、既存のものと違うものを目指そうとすると、そのコンセプトの段階から聴衆の方々とミスコミュニケーションをしてしまうリスクがある。例えばであるが、上の段落で述べた「その場で納得できること」を問題視して、「問題ばかりだして答えを出さず、自分で探してもらう」という企画を作ることもできるだろう。しかし、おそらくそれを変えてしまったら、企画の紹介として十分にそれを説明して、他の部分は既存のものに沿わせて問題意識を一本に絞るなどしないと、企画の理念は伝わらないだろう。良くも悪くも、2018年の五月祭での私が代表を務めるサークル「文京科学大学」の発表もそれを示しているように映った。
②科学というテーマの問題
次に、科学というテーマにまつわる問題だが、科学はこれまでの数百年の実績として非常に多くの知識を積み上げている。おそらく、多くの問題は、これがあまりに膨大な上に、そうした積み上がった知識の前提で新たな科学研究が進んでいるという構造そのものが生み出している。積み上がり過ぎて、頂上を見るにはかなり高い山を懸命に登らねばならない。時にはその「登山技術」さえ、要求されてしまう。山が高いことはすなわち、「高度に専門化した」などと言われることにあたるだろう。ラフに鳥瞰して、それを紹介することはできなくもないし、現に最先端科学を一般人向けに紹介する本もあるが、知識が積み上がれば積み上がるほど、前述のような「個人の経験」と科学的見地の乖離も激しくなって、難易度を増してしまう。
そのくせ、西洋の科学は思想に基づいた方法論に始まっているところがある。そしておもしろいことに、方法論さえ、科学の進歩と共に変化している。そのような詳細は科学史や科学哲学の適当な文献を当たって欲しいところだが、なんらかの科学的な結果を導く場合、非常に強力な説得力を持つに足る、精密な検証と、それでなお行われる批判という2つのせめぎ合いを無視して通ることはできない。にもかかわらず、科学コミュニケーションの現場でも、一部の「研究活動をフォーカスした」ものを除けば、「結果」の部分が先行し、なぜそのような結果を得たのか、という部分が軽視される。しかし、判断の過程を見ないままでは、偽物とも区別がつかない。世の中には擬似科学は多々あるし、それに関して「科学リテラシーの強化」といった議論があるが、疑似科学に騙されやすいのは、科学への関心が一定以上にあるという議論もあり、一筋縄に解決できる問題ではない。
もっとも方法論を扱うことはサイエンスコミュニケーション活動の多様化、充実によってある程度は解消できるのではないかと期待し、文京科学大学における活動目的の1つのキーとなっている。しかし、前者は本質的難題である。もちろん、工夫によって、ある程度の改善はできるだろうが、そこは限界がある。ないとすれば、なぜ理系の大学で博士を養成するのに9年もかかるのか?という話だ。科学コミュニケーションが直接手を打てるのは、その「ある程度の改善」ということにすぎない。どうしても一定以上の話を伝えようと思えば、コミュニケーションでの本質的な問題としての、話の前提の違いである、過去の経験とのすり合わせの類の労力を面と向かって払わなくては仕方がないだろう。そういう労力を払うことに抵抗のないスタイルにして、長く関わってもらうことは模索されているが、どうしても長い時間を要して、一部の固定客でしか達成できないだろう。
おわりに―息の長い取り組みへ
とはいっても、接触機会を増やし、わずかでも「固定客」を得ることから、また、新たな工夫や、固定客を創出し、ひいては科学への関心や知見の豊かな人を増やす意義を持つという考え方もありうる。家族が参加すれば、子供の教育効果も期待できる。聞き手側の発言が、距離を縮めるキーになることもある。専門家と市民の別なく、気軽に科学の話題でトークをするサイエンスカフェというスタイルにはそういう息の長い目線を感じる。
サイエンスコミュニケーションは、ただ、テーマが科学というだけで、基本はコミュニケーションである。
参考書籍
科学コミュニケーション論』東京大学出版会
伊勢田哲治(2003)『疑似科学と科学の哲学』名古屋大学出版会