私が生物言語学を研究する理由—人間本性探求—

他の生物と違って、人間とは、言葉を使ってコミュニケーションを取り、社会を構築し、その中で様々な活動を行う生き物である。例えばミツバチは巣の中でダンスをして蜜のありかを仲間に伝えるし、ベルベットモンキーは、特定の捕食者に対応した警戒音を発することで、その捕食者から逃げるための行動を仲間たちに促す。これらは広い意味でコミュニケーションと言えるが、人間は、そのコミュニケーションの道具(つまり言語)を、捕食者がいない環境や食料のありかを伝達するためだけではなく、思考をするため、そしてなによりその思考を他者と共有するために使う。このように、本来別の存在である他者との意図の共有を出来るという意味で、言語とはなんとも不思議なものである。現時点で人間以外に言語を扱う生き物はいないと言われていることを勘案すると、一つの仮説として、言語がヒトをヒト足らしめている特性であると言えるだろう。では、他の生物とは異なる、人間固有の言語とは何なのだろうか。言語の獲得を可能にする生物学的な本能が我々にはあるのだろうか。ここでは、この問いを深めることで、人間とはどういう生き物なのかについて考え、生物言語学という1つの観点からはどのような答えが得られるのかについて,筆者独自の視点も交えて見ていく。

本記事の構成は、以下のようになっている。まず、1章ではチョムスキーによって1950年代に確立された「生成文法」という学問の基本的な考え方について簡単に見る。2章では、生成文法を打ち出したチョムスキーの、政治思想家という、学者としてのもう1つの側面を見ることで、生成文法がなぜ1章で見たような考え方を取っているのかについて考える種を蒔く。そして、3章で実際に1章と2章の融合を図ったのち、4章では、筆者の専門である生物言語学・進化言語学という、生成文法(を含む言語学)の最新パラダイムについて概観する。5章では、進化・生物言語学が解き明かす(と筆者が信じている)人間本性の一部について概観し、6章はそこから見えてくる「我々が進むべき道」について考察し、7章で本記事を終える。

ADVENT CALENDAR 2018―14日の投稿

12月1日から24日までクリスマスを待つまでに1日に1つカレンダーを空けるという風習に習って、記事を投稿するイベント、それがADVENT CALENDAR!

0. 筆者の背景

まず、本記事を読んでいただく前に、退屈ではあるだろうが、少し筆者の昔話に付き合ってほしい。というのも、筆者が本記事で言及されている生成文法や生物言語学を専門的に研究しようと思うに至った背景が、そこにあるのだ。

私は、小学校3年生の頃から、母子家庭で育った。母子家庭で育った方ならわかるだろうが、父親がいないというのは何とも疎外を感じることなのである。それに加えて、私の母親は中卒であったため、かなり苦しい幼少時代を強いられたのだが、勉強をしていい大学に進んでからも、この苦しみは残り続けた。大学では、「塾も行かずにお金のない家で育ったのに旧帝(旧帝国大学)に現役で受かるなんて奇跡だね」というようなことを頻繁に言われ、こういった経験をしていくうちに、「なぜ母は中卒であるというだけで、正規雇用してもらえず、真面目に働いているのに、大卒であるだけの、倫理がなっていない人間よりも社会的に”下”に置かれてしまうのか。そしてなぜその母の元に生まれた私が、同じ大学に進学した皆に”君が受かったのは奇跡”などと言われなければならないのか」といった問いが、私の心に残り続けた。大学に進学したらやりたいなと思っていた理論言語学をやっていても、この心の中の問いに対する答えはなかなか見つかりそうになく、絶望の淵に立たされている感覚すら覚えたわけだが、ひょんなことから「生物言語学」という学問分野に出会い、自体は一変した。「これだ!この学問をやれば、人間が他の動物と違って”人間”である理由と、差別の不当性、権力構造に対する不信感などに答えを出してくれそうだ!」と思った私は、それ以来ずっと「生物言語学」を勉強・研究しているわけである。

生物言語学という、差別や権力構造と関係のなさそうな学問がどのようにしてこれらの問いに繋がっていくのか。このことを詳しく見ていこう。

1. 生成文法とは

アメリカの言語学者であるノーム・チョムスキー(1928~)は、1950年代に生成文法理論を打ち出すことによって、上に記したような問いを明確化し、その問いに対するアプローチの手法を体系立てた。彼の主張は概略次のようなものだ。

アメリカで生まれた子が、生誕直後にアマゾンの僻地で現地の人々と生活を営めば、英語ではなく現地の言語を何の苦労もなく獲得する。我々だって、日本語の文法規則を一切教えられることなく、日本語を獲得した。確かに両親を含む他者の話す言葉を刺激として受けてはいたが、そのインプットの量に対して、我々が行うアウトプットの量は莫大である。われわれは、ごく限られたインプットしか与えられない中で、言語を身に付けることが出来る。このように聞いたことも見たこともない文(表現)を話すことができるのは、人間には「言語獲得装置」なるものが生まれながらに備わっているからであり、またそのおかげで言語に基づいた思考が可能になっているのだ。

チョムスキーのこの生成文法理論によって、言語学という学問に大きな転換が起こった。それ以前は、観察された言語表現から読み取れる規則を記述していくことこそが言語学であると言われていたのであるが、対してチョムスキーの言語学は、人間の心/脳に内在する言語獲得装置の規則を観察し、そこから得られたデータを記述、さらにそこから演繹的に人間言語一般にある法則を見出すような研究を目指していた。つまり、チョムスキーの生成文法は、心理学、生物学、そして究極的には生物として賦与されたその装置にかかる自然法則などを解き明かす物理学なのである。日本語と英語を比べただけでも、違いはたくさん見られるが、チョムスキーにとってその違いは、内在的な言語が外に出され、それを利用してコミュニケーションを取るグループ間に存在する歴史・文化の産物としての「表層的な」違いなのであり、「言語」の違い、すなわち「話者に内在する思考の言語」の違いではない1ここでの表層的というのは,取るに足りないという意味ではなく,表立って現れる違いという意味である.。したがって、生成文法の仕事は、日本語、英語、フランス語といった表面的な違いを超えて、人類の内在的言語に共通して存在する一般性を見出すことなのである。

ここまでみてきた通り、生成文法の枠組みにおける「言語」とは「思考の言語(Language of thought)」であり、コミュニケーションのツールではない。言語とは本質的に人間の思考の道具として賦与されたものであり、コミュニケーションツールとしての機能は副次的なものだと言うのだ。そして、思考の言語を持つ我々の思考が他の種のそれと質的に異なる部分として、有限のアイテムを使って無限の表現が生み出せることが挙げられる。例えば。you like meという表現を繰り返してI think that Bill thinks that he thinks that…you like meのように、無限に要素を付け足せる。この無限性が、人間の無限の想像力の源であり、他の種には見られないものなのだと、チョムスキー一派の理論言語学では考えられている2生成文法の考え方については、以下の文献を参照されたい。
Chomsky, N. (1955). The logical structure of linguistic theory. New York: Springer.
Chomsky, N. (1957). Syntactic structures. Berlin: Mouton de Gruyter.
Chomsky, N. (1995). The minimalist program. Cambridge, MA: MIT Press.
Chomsky, N. (2000). Minimalist inquiries. In Martin, D. Michaels, & J, Uriageraka (Eds.), Step by Step:
 Essays on minimalist syntax in honor of Howard Lansik (pp. 89-155). Cambridge, MA: MIT Press.
Chomsky, N. (2001). Derivation by Phase, In Kenstowicz, M (Ed.), Ken hale: A life in language (pp.
 1–52). Cambridge, MA: MIT Press.
Chomsky, N. (2005). Three factors in language design. Linguistic Inquiry, 36, 1–22.
Chomsky, N. (2007). Approaching UG from below. In U. Sauerland, & M. Gartner. (Eds.), interfaces +
 recursion = language? Chomsky’s minimalism and the view from syntax-semantics (pp. 1–29).
 Berlin: Mouton de Gruyter.
日本語の参考文献としては、福井直樹(2012). 『新・自然科学としての言語学』(筑摩書店)などが挙げられる。

2. チョムスキーの思想

ここまで、チョムスキーが打ち出した生成文法という言語学の研究領域について見てきたが、その学問の根底にある考え方を探る手掛かりを得るために、ここではチョムスキーの政治思想について簡単に見る3本章の内容をより詳しく知りたい方には、以下の文献を参照されたい。
McGilvray, J. (2005). The Cambridge companion to Noam Chomsky. Cambridge: Cambridge
 University Press.
McGilvray, J. (2017). The Cambridge companion to Noam Chomsky, 2nd edition. Cambridge:
 Cambridge University Press.

1928年12月7日にこの世に生を受けたチョムスキーは、ユダヤ人社会で育ち、ヘブライ語を習い、そのような環境の中で労働シオニズムなどの左翼的(と呼ばれる)思想に触れていった。初等教育を、個人の趣味や興味関心を伸ばすことに重点を置き、競争というものをさせない自由な学校で過ごしたチョムスキーは、10歳の頃に人生で初めての論文を書いた。その内容は、スペイン内戦によるバルセロナ陥落を受けてのファシズムの拡散についてだった。それ以降、昔から続くユダヤ人差別や、当時の社会に蔓延る差別や戦争に対する強い反感を外側に出すことを厭わなくなり、ますます平和主義、反差別主義的な思想を強めていった。ペンシルベニア大学に入学したチョムスキーは、学問に対する興味を失ってしまうほどに、社会における差別や偏見、戦争、人々の倫理観のなさに辟易としてしまったが、恩師であるネルソン・グッドマン(哲学者)やゼリグ・ハリス(言語学者)といった、学問的にも人間的にも尊敬できる人々に出会うことで、ディレッタンティズム(学問や芸術を、利害を気にせずにそのままの形で受け入れ、楽しむ姿勢)を取り戻していった。それから彼は、博士課程修了後、ハーバード大学のジュニアフェローに選出され、その頃の研究が生成文法理論へと結びついたわけであるが、それ以外にも数学(特に情報科学)や心理学、音韻論、哲学などにもかなり熱を注いで研究活動を行っていた。しかし、ベトナム戦争が始まって以降、彼のアメリカへの怒りは頂点に達し、反戦運動に熱を注ぐために、それまでの研究内容のほとんどを捨ててしまったのである。

この簡単なまとめを見てもわかるように、彼の思想はいわゆる「左翼」的である。いや、より正確にいえば、彼は「アナキスト(無政府主義者)」である。彼自身も自分がアナキストであることは認めており、「10代のころにアナキズムに魅了されて以来その考えは変わらない」と言っている。彼はアナキズムについて「生活のあらゆる側面での権威、ヒエラルキー、支配の仕組みを探求し、特定し、それに挑戦することにおいてのみ、意味があると思っている」と言い、「これら(権威、ヒエラルキー、支配)は正当とされる理由が与えられない限りは不当なものであり、人間の自由の領域を広げるために廃絶されるべきもの」「権力には立証責任があり、それが果たせないのであれば廃絶されるべきであるという信念、これが、私のアナキズムの本質についての変わらぬ理解である4詳しくは、動画を参照されたい。」とその考えを述べている。当然、彼にとって日本の社会構造は「悪」であるということになるし、アメリカ主導のグローバル資本主義も批判の対象になっている。差別される対象が存在しうる(差別が結果として必ず生まれてしまう)ような社会システムそのものを否定し、人間の理性に徹底的な信頼を置く彼の極左思想は、アナルコ・サンディカリズムと呼ばれる。

3. 生成文法と彼の思想の共通点

ここまで、生成文法の基本的な考え方、姿勢と、それを打ち出したチョムスキーの思想を見てきた。チョムスキー自身は、「ここまで関係ない分野(平等主義的、アナキスト的思想と生成文法とその周辺にある学問領域)に興味を持てる自分が不思議だ」と述べているのだが、私はこの二つに共通点を感じる5ノーム・チョムスキー メディアコントロール 2 │ Youtube。生成文法の根本には「言語とは思考の道具であり(思考の言語)、これは生物学的に賦与されたヒトという種に固有の、無限の思考を可能にする形質である」という考え方がある。病理的なケースを除いて、この言語獲得装置は我々に等しく、平等に備わっている。そしてそれが思考を可能にしているのであれば、我々の思考の「レベル」には差はないことになる。人種、時代、性別、年齢など関係なく、言語を獲得した我々の思考のレベルは皆同じである。大人が子ども(言語を獲得した後)よりも「頭がいい」というのは語弊があって、ただ単に子どもよりも大人の方がたくさんのことを「知っている」というだけの話であり、言語を使って行う思考の程度という意味では同じである。お年を召して言葉に詰まることが多くなった方々も、「内在的な思考」は我々若者と同じ仕方で、同じ程度に行っているだろう。このアイデアはまさにチョムスキーの平等主義から来ているのではないだろうか。2018年W杯ロシア大会で、日本代表とセネガル代表が試合をしているとき、「セネガルはアフリカのチームだから頭をあまり使わずに身体能力だけで戦ってくるから、組織的に守備をすれば勝てる」と言っている人をたくさん見た。これがとんでもなくくだらない、そして根拠のない差別であることは言うまでもないが、このような差別は、言語獲得装置の考え方の前では成り立ち得ない。言語獲得装置は、仮説的な側面を持ちつつも、完全に反証されるまでは、「人類の平等」を担保してくれるものであることがわかる。チョムスキーが意図してかどうかはわからないが、生成文法は、人間の思考という側面においての平等性を主張する学問であると捉えられるようになっているのである。

4. 生成文法の最前線: 生物言語学・進化言語学

近年、生成文法理論は新たな進展を見せている。人間にのみ賦与された「言語獲得装置」の具体的な内容を問うてきたこれまでの理論から1歩進み、進化の過程の中で人間が言語獲得装置をいかに手にしたかという新たな潮流が生じてきている。このように、言語の進化を考える領域を進化言語学、言語を生物学的な観点から捉える研究を生物言語学という。私の専門もこの(チョムスキー理論に立脚した)生物言語学と進化言語学である。もちろんチョムスキーもこの研究に取り組んでいる。彼の言語進化観は、以下のようなものだ。

言語能力のような離散無限的なものは生物界に他に見られないため、ダーウィンの自然選択では説明できない。したがって、ある個体内で遺伝子の転写ミスによる脳の再配線が、約50,000~100,000年前に起こり、それが言語能力をもたらしたと考えるほかない。その個体は他の個体よりも思考力が優れており、生存に有利であるため、この段階で淘汰が働き、この個体が子孫を多く残すことで言語能力は人間に普遍的なものとなったのである。そして、言語能力が人口に膾炙していく段階で、感覚・運動システムと言語能力がリンクし、個人の内在的な思考の言語が「外側」に出されるようになった。これによって言語を使ったコミュニケーションも可能になった。

ここまで一切触れずに来たが、もちろんチョムスキーの考え方に反対する人が言語学界にいないわけではない。むしろ大多数が、生成文法の中核的考え方に反対の立場を取っていると言っても過言ではないだろう。ここでは、特に進化言語学の観点に絞って、反チョムスキー的な立場からの言語の進化シナリオの例をいくつか注釈に置いて紹介するので、興味のある方はそちらを参照されたい6まず、言語のジェスチャー仮説を挙げる。言語はもともと、何か外界にあるものの形を、手を使って表しすことで他者とそのものの存在を共有したり、そういったコミュニケーション的な活動から進化したというのがこの仮説の主な主張である。我々がいまでもコミュニケーションの際に身振り手振りで意図を伝えようとする(英語ができない人が海外に行けばこうなるということは容易に想像できるだろう)ことを勘案すると、この仮説には一定の説得力がある(しかし、同時に様々な問題点があり、私自身はこの仮説には反対だが、ここではその詳細に立ち入らないことにする)。
もう一つここで紹介するのが、意図共有仮説である。この仮説は、ジェスチャー仮説と非常に相性が良く、相互に補填し合う形で成り立っている。ジェスチャーが原始的な形で「情報の発信者が受信者へと情報を伝える」というコミュニケーションの基となっていると仮定した上で、人間という種に特有なのは、意図を共有したいと思う意思の強さであるというのがこの仮説である。我々人類は他者が何を考えているのか、何を思っているのか、何を言いたいのかを理解する能力に長けており、幼児の言語習得とパラレルな形でこの能力は上がっていく。この仮説にも様々な問題点があるのだが、ここではそれを一旦無視しておくとして、この仮説も、先のジェスチャー仮説同様、人間の特性を捉えたものであることは言うまでもない。
これらの仮説については、以下の参考文献を参照されたい。
Fitch, W. T. (2009). The biology & evolution of language: Deep Homology and the evolution of 
 innovation. In M. S. Gazzaniga (Ed.), The cognitive neurosciences IV (pp. 873–883). Cambridge,
 MA: MIT Press.
Fitch, W.T. (2010). The evolution of language. Cambridge: Cambridge University Press.
Fitch, W.T. (2011). Unity and diversity in human language. Philosophical Transactions of the Royal
 Society, B: Biological Sciences, 366, 376–388.
Tomasello, M. (1999). The cultural origins of human cognition. Cambridge, MA: Harvard University
 Press.
Tomasello, M., Hare, B., & Agnetta, B. (1999). Chimpanzees, Pan troglodytes, follow gaze direction
 geometrically. Animal Behavior. 58, 769–777.
Tomasello, M., Carpenter, M., Call, J., Behne, T., & Moll, H. (2005). Understanding and sharing 
 Behavioral Brain Science. 28, 675–691, discussion 691–735.

チョムスキーのような断続的な進化のシナリオには反論もあるが(注を参照)、どの立場に依拠して研究を行う場合でも、我々の先祖及び他の種との比較による分析は必要不可欠であるため、進化生物学はもちろん、動物行動学、進化心理学、霊長類学、古人類学、神経科学などとの相互作用が必要とされる。このように学際的な分野であるというのが、進化生物言語学の特徴であり、これまでの言語学とは決定的に異なっていて面白い点である。

そして、最も重要な点(だと私がここで思う)は、チョムスキーのような立場を取ってみてもそれ以外の立場にあったとしても、人間の種固有性(他の生物には見られない、人間固有の特徴)が「他者との複雑な意図(思考内容)共有が可能である」という側面に置かれている事実である。もう少し詳しく述べる。言語の起源の重要なターニングポイントは、複雑な意図共有ができるようになった段階である。ジェスチャー仮説(注6を参照)のみでは、なぜジェスチャーからここまで複雑な言語が進化したのかを説明できなかったが、意図共有仮説がそれを上手い形で補填してくれている。意図共有能力によって、我々のコミュニケーションシステムはどんどん複雑になり、より細かい事象などを表せるようになったと、彼らは考えている。対してチョムスキー的言語、つまり思考の言語の進化を考える場合でも、実は同じような構図が見えてくる。思考の言語は本質的にそれを持つ1個体のみの能力であり、少なくとも最初の段階ではこれを持つ個体は1人しかいなかった。生存に有利であるこの個体は多くの子孫を残し、結果として言語能力が普遍的なものになったわけであるが、この内在的言語能力は、ジェスチャーを司る運動器官なり音声を司る音声器官なり(これらをまとめて感覚・運動器官と呼ぶ)と結びつくことで初めて「外側に出される」。内在的言語能力(すなわち思考)が予め進化して、それが感覚・運動器官と結びついたからこそ、我々は他者とそれを使ってコミュニケーションが取れるのである。つまり、チョムスキー的進化論と他2つの違いは、「先に複雑な思考が可能になっていたのか、それとも複雑な言語コミュニケーションは少しずつ進化したのか」であり、どちらも「複雑な思考」の必然性と、それを使ってコミュニケーションを取るためには「意図共有能力」が必要であるという点は共有している。ここにこそ、私が進化生物言語学を専門としている理由の1番大きな部分があるのだが、次章ではその具体的な理由というものを、少し私の個人的な趣味などとも絡めて話していく。

5. 生物言語学を研究してわかる人間本性(の一部)

言語という、種に普遍的なおかつ固有な特性を持つ我々ヒトは、言語を使用することで、他者と繋がり、お互いの意図を共有できるようになったことは前に見た。(少なくともチョムスキーの言語学に立脚すれば)思考の道具としてあるこの言語能力によって、複雑な思考が可能となった我々は、体の強さという点においては勝つことができない捕食者(ライオンなどを例にとって考えてみればわかるだろう)に対して、この、言語を用いた他者とのコミュニケーションと、それによって生まれる協調性を使って、グループ単位で立ち向かうことで生き抜いてきた。つまり、言語の本質は思考である。それと同時にその思考を外に出して、他者と思考を共有するところにも、言語の特性があり、生物界におけるヒトの「強さ」の基盤がここにあるというわけである。ヒトという生物種に固有の言語がどのように進化したのかを考えることで、我々にとっての言語が何かを深く考えることができた。そして、その言語を使ってグループを作り、捕食者に立ち向かうことができるようになった人間が、今度は同一種内の他のグループと争うようになったということも知った。世の中に様々な言語(英語、日本語、イタリア語など)があるのも、根底にはこれがあるのではないかと私は思っている。他のグループ内には通じない暗号としての言語を使用することで、相手に作戦を知られないという利点があると同時に、同一言語を使用する相手には何らかの仲間意識を感じるようになり、絆のようなものが深まったのであろう。海外に行ったときに、日本語の母語話者に出会うと救われたような気持ちになるのも、県外の大学に出たあと、同じ地元の出身で、同じ方言を話す人に出会うと、何か言葉では言い表せないほど嬉しい気持ちになるのも、このような背景があるからではないかと思っている。対して、外国人に対して異様なほどの反感・差別意識を持つ人の根底にもこれがあるのではないだろうか。街中で中国語を話す旅行客を見かけたときに、見た目がほとんど日本人と区別がつかない彼らに対して、差別的な思考を持ってしまう人も、中国語を聞いたときに初めて「中国人だ」と認識するからであろう。

そして、さらに厄介な問題が、思考の言語を使って内在的に行う思考やそれによって生まれる思想や信念というものが、そっくりそのままの形で外に出すことはできないという事実である。その人にしかできない経験の積み重ねとして人格を形成した一人ひとりの人間が、内在的な言語を使って思考をして、それをいくら論理的に構築して外に出しても、本質的に人格の異なる他者に、100%それをわかってもらえるなんてことは有り得ない。この「有り得なさ」によって、勘違いが生まれ、いざこざが起こり、差別的な感情を生み出してしまう。この、外に出された、公共性を持つ言語というものの「不確実性」があるからこそ、差別が「仕方のないもの」として成り立ってしまうのである。相手の論理を100%理解した状態で「それでも◯◯人はクソだ」なんて言えば、完全に差別する側が倫理的におかしいことは担保されるわけであるが、差別される側は思考を100%外在化できないし、それによって差別する側も相手を100%理解できない上に、自分の中で閉じた人格の中でそれを解釈してしまうので、言語をある種無理やり使ってコミュニケーションを取っている人間にとって、差別は「起こってしまうことは想像に難くない」ものなのである。しかし、この、差別の「起こりうる事実」を認めた上で、差別主義思想の間違い、もっと正確にいえば差別主義からの脱却の方法について、次章で生物言語学を専門とする私の考えを提示したいと思う。

6. 言語を持つ生物としてのヒトの生き方: 生物言語学からの提案

さて、言語を持つ人間にとって、差別が「起こってしまうことは想像に難くない」ものであることは前節で述べた。果たして、差別が存在してしまうのは仕方のないこととして諦めるしかないのだろうか。私は決してそんなことはないと思う。ここで、差別の起源を探ったときと同様に、生物言語学の知見を借りるときがきた。

少なくともチョムスキーの理論生物言語学のもとでは、言語は思考の道具であるということを思い出してほしい。ここでいう、「思考」とは何だったかというと、それはとりもなおさず、無限性、つまり原子的な概念を要素として無限に演算を行い、階層構造を持った「表現」を生み出すことであった(第1章を参照されたい)。そして、この能力は、病理的なケースを除いて、全ての人間に普遍的に賦与された生物学的形質であるということも見た。すなわち、蓄えた知識の量については別として、「思考」という観点においては、人種、性別、年齢などに起因する差はない。従って、全ての人には、生まれながらの知性の差というものは存在せず、差が生まれてくるのは、生まれてから育つ環境、より正確にいえば、どれだけ先人たちの残してきた知の遺産に触れ合える機会が多いかに起因する。よって、中卒だから頭が悪いとか、◯◯大学だから頭が悪いなどという、浅薄でくだらない考え方は、ここでは通用しない。機会さえ平等に与えられれば、皆等しく内在的言語能力を駆使して、豊かな知識を蓄えることができる。私がこれまで受けてきた、血縁至上主義的な差別の不当性は、ここから得られるのである7加えて、誰がどこでいつどのような親の元に生まれるのかは全くの偶然であることを考えると、後天的な経験やそれに基づいた人生もまた偶然の産物であり、もちろんそれに基づいて誰かを差別することもまた許されるはずがない。つまり、「俺/私は努力でここまできたんだ。だから俺/私より成功してない奴らは下だ」という人がいたとしても、そもそも「努力できるように整えられた環境」に生まれ落ちた時点で「運」が絡んでいるし、むしろこの「運」の部分のみが後天的な環境に作用しているため、このようなジャッジメントもまた馬鹿げているのである(「私は宝くじが当たった。お前は当たっていない。だからお前は俺より人間的に下の屑野郎だ」なんていう人がいれば、誰だって馬鹿げていると思うだろう)。ただし、「差別をするような人に育ってしまった環境に生まれた」という偶然の悲劇を認めたとしても、そのような人に「差別する権利」を認めるわけにはいかない。すなわち,某金髪坊主のお笑い(お嗤い)芸人がいうような、「差別する人を差別している!」という主張は成り立ち得ない。何故ならば、反差別とは、「一人ひとりの人格や価値観、基本的人権を認めること」が定義であるため、「差別する権利(価値観)」をその定義の中に含めてしまうと、語義矛盾を犯すことになるためである。したがって、差別してしまうように育ってしまった人に対して憐憫を掛けることは許されても、「差別する権利」を認めるわけにはいかない。

人種差別やセクシャルマイノリティ差別にも、同じような議論が当てはまる。前章で見た通り、本質的に内在的で、自分の中で閉じた言語能力を駆使して生み出される思考や思想というものは、いくら公共的な言語を用いても100%は伝わらない。そして、伝わらないからこそ、いざこざや差別が生まれること、それから、言語を使って意図共有ができるようになったからこそグループ間での絆が深まると同時に、他のグループを排除しようとする意思も生まれた。

ここで、再び言語によって我々が「生物として」どのように生存競争を勝ち抜いてこられたかに目を向けてほしい。我々は、言語を使って(無限の)思考を行い、それを外側に出すことができるようになった。この「言語能力」と、それを使った思考が、種に普遍的であり、なおかつ(ほとんど)差異のないレベルであったからこそ、人間は他者と協力し、外敵と戦うことができたわけである。

しかし、この能力には、「排外的な仲間意識」が必然的に伴ってしまっている。他の動物を敵とみなすことでグループを形成してきたこの排外的な意識が、種内にも拡張されてしまえば、たちまち差別が起こってしまう。

つまり我々人間は、一方でことばによって差別を行い、もう一方ではことばの存在から差別の不当性を論じることができるという相矛盾する状況下にある。ここで、差別ではなく平等の側を選択する論理はどのようにして得られるのだろうか。

その答えは「生き延びる」という生物としてのもっとも基本的な原理から来ると私には思われる。

高度な社会を形成する人間は、一見、他の種の追随を許さないほどに強くなったため、絶滅の恐れなどないように思われる。しかし、よく考えてほしい。我々のこの社会が、果たしていつまで続くだろうか。我々が資源として利用している石油はどんどん枯渇しているし、人間の手によって絶滅した、あるいは絶滅の危機に瀕している動物も増加の一途を辿っている。このまま進めば、人間が食料としている動物もどんどん数が減ってしまうだろう。また、環境汚染やそれに伴う地球温暖化によって、地球において生物の住める環境は激減している。このような「環境」の変化、激動に対しては、人間はあまりにも無力であるということは、2011年の東日本大震災などを例に取ってみれば想像に難くない。確かに、この高度社会(というより、それを形成できる思考の蓄積)のおかげで、他の種と争う必要もないほどまでに人間は強くなった。しかし、今度は、我々自身が作り上げた「社会」が孕んでいる問題と争わなければ、種が絶滅してしまう時代まできてしまっている。こんな危機的状況にいて、人種差別やマイノリティ差別をしている暇など、とてもあるようには思えない。

言語は「”種の”生存に有利に働く生物学的形質」である。人間という種が生き残れないならば、個人が生き残れるわけがない。現代においてヒトという種にとっての最大の敵である「環境問題」に立ち向かうために、言語の「生物学的な起源」に立ち還る必要があるのではないか。そして、そのためには、始発点に戻って、「種内での協力」のために言語を使用する必要があるのではないだろうか。以上を勘案すると、少なくとも筆者には、このような危機的状況においてもなお、種内での差別を助長するような言語使用をしている人々は、時代にも、そして言語を持つ人間の本来のあり方にも逆行しているような気がしてならない。

7. 結辞: 基礎科学が、実際の生に繋がる

生成文法(理論言語学)や進化言語学、生物言語学が基礎科学であることは疑いようのない事実であろう。昨今、特に日本では、政治的な背景やその他様々なことが起因して、基礎科学を軽視する論調が散見される。実際、我が国の総理大臣ともあろう人間が、基礎研究ではなく、社会のニーズにあった研究を支援するなどと言っているのだから、我々のような基礎科学研究者にとっては、なんとも肩身の狭い世の中になっている。学生の間でも、文系軽視、理系崇拝のような考え方が幅を効かせてしまっているのも、根底には、基礎科学を軽視する社会的な風潮があるだろう。そもそも、学問としてどの分野にも優劣などないというのは今更言うまでもない事実であるように(私には)思われるのだが、ここで、進化生物言語学という、文理の壁をはるかに超えた超学際的な研究分野と、生成文法という、従来人文系学問として扱われてきた言語学の中において、人間の言語システムを自然科学的手法によって研究する分野を専門としている私から、基礎科学の重要性について述べて、結辞と代えさせていただく。

人間の言語の起源と進化、それから生物学的な形質として我々に賦与されたその言語能力の計算的規則などを研究すること自体が社会の資本主義的なニーズに答えることはないだろう。ただし、それをやることによって「人間とは何か、その人間の生きる社会とは何か」という問いに迫ることで、あらゆる人間が問いもしない問題に対する、少なくとも解説の糸口となる提案をすることができる。生物言語学ができるそのような提案として、私が思う、言語を持つ人間が目指すべき生き方について記す。

言語のおかげで自由な意志、複雑な思考、純粋理性を持てたのであれば、「思考をせずに」差別的な発言をしてしまう前に、本来の言語のあり方に立ち返って「頭の中で言語能力を使って一度深く考えたのちに」コミュニケーションをしてみたらどうだろう。そして我々が今恩恵を受けている科学技術や先人の知恵の数々は全て言語がなければなされなかったし、記録にも残らなかったものである。同時にそれはたくさんの人を傷つけてきた(原爆もそうだし匿名掲示板などもそう)。言語というのは本来、身体が発達していない弱いヒトに自然での競争を勝ち抜くための「知恵・思考」として賦与されたものであろう。その言語を「外在化」出来るようになった我々は、それを使って知恵を共有し、作戦を立てて、狩りをしたり、グループを形成し、生存競争を勝ち抜いてきた。ところが今はそれを使ってヒト同士が傷つけ合っている。とんでもなく馬鹿らしくないだろうか。言語は思考の道具であり、それを使ったコミュニケーションは「助け合い」がその第一義であるという原点にかえってみる時代はもうきているのではないか。もちろん、これは「生物言語学」という観点から見た場合の人間観であって、異なる人間観は数多く存在する。しかし重要なのは、現在ある差別に反論しうる人間観を、基礎科学が提供する可能性があるということだ。その1つのケーススタディとして、生物言語学が提出する人間観は大きな意義を持つのではないだろうか。

基礎科学がベースとなって初めて、テクノロジカルなことが出来るというのが、基礎科学の強みだというのは、研究者の間では常識のようなものだが、それ以上に私が、生物言語学という基礎科学に惹かれた理由は、このように、自身の知的好奇心を満たしてくれる研究を通して、自分が今まで苦しんできた差別の構造やその起源について知り、それを克服する術を与えてくれるからである。そしてこのような苦悩や疑問を感じられるのも、内在的な言語能力があるからであるが、そのような、本質的に自分の中で閉じた苦しみや問いと、全てではなくても似たようなものを感じている他者の心へと、研究を通して得た知見や思考を届けられることに、私はこの上ない喜びと誇りを持って研究している。そして、言うまでもなく生物言語学以外のあらゆる基礎科学的な研究にも、同じことが当てはまるのではないだろうか。基礎科学とは、自分にしか問えない哲学的な問いを探求し、それによって自分の苦しみを解決してくれる術を手にし、なおかつそこから得られたものを他者に提供しようと努めるような姿勢のことに他ならず、自分だけではなく他者の人生も豊かにしてくれる、世界で人類のみが(言語能力のおかげで)行える、誠に美しい芸術的な営みなのであるということを述べて、この辺で筆を擱くことにする。

Footnotes

Footnotes
1 ここでの表層的というのは,取るに足りないという意味ではなく,表立って現れる違いという意味である.
2 生成文法の考え方については、以下の文献を参照されたい。
Chomsky, N. (1955). The logical structure of linguistic theory. New York: Springer.
Chomsky, N. (1957). Syntactic structures. Berlin: Mouton de Gruyter.
Chomsky, N. (1995). The minimalist program. Cambridge, MA: MIT Press.
Chomsky, N. (2000). Minimalist inquiries. In Martin, D. Michaels, & J, Uriageraka (Eds.), Step by Step:
 Essays on minimalist syntax in honor of Howard Lansik (pp. 89-155). Cambridge, MA: MIT Press.
Chomsky, N. (2001). Derivation by Phase, In Kenstowicz, M (Ed.), Ken hale: A life in language (pp.
 1–52). Cambridge, MA: MIT Press.
Chomsky, N. (2005). Three factors in language design. Linguistic Inquiry, 36, 1–22.
Chomsky, N. (2007). Approaching UG from below. In U. Sauerland, & M. Gartner. (Eds.), interfaces +
 recursion = language? Chomsky’s minimalism and the view from syntax-semantics (pp. 1–29).
 Berlin: Mouton de Gruyter.
日本語の参考文献としては、福井直樹(2012). 『新・自然科学としての言語学』(筑摩書店)などが挙げられる。
3 本章の内容をより詳しく知りたい方には、以下の文献を参照されたい。
McGilvray, J. (2005). The Cambridge companion to Noam Chomsky. Cambridge: Cambridge
 University Press.
McGilvray, J. (2017). The Cambridge companion to Noam Chomsky, 2nd edition. Cambridge:
 Cambridge University Press.
4 詳しくは、動画を参照されたい。
5 ノーム・チョムスキー メディアコントロール 2 │ Youtube
6 まず、言語のジェスチャー仮説を挙げる。言語はもともと、何か外界にあるものの形を、手を使って表しすことで他者とそのものの存在を共有したり、そういったコミュニケーション的な活動から進化したというのがこの仮説の主な主張である。我々がいまでもコミュニケーションの際に身振り手振りで意図を伝えようとする(英語ができない人が海外に行けばこうなるということは容易に想像できるだろう)ことを勘案すると、この仮説には一定の説得力がある(しかし、同時に様々な問題点があり、私自身はこの仮説には反対だが、ここではその詳細に立ち入らないことにする)。
もう一つここで紹介するのが、意図共有仮説である。この仮説は、ジェスチャー仮説と非常に相性が良く、相互に補填し合う形で成り立っている。ジェスチャーが原始的な形で「情報の発信者が受信者へと情報を伝える」というコミュニケーションの基となっていると仮定した上で、人間という種に特有なのは、意図を共有したいと思う意思の強さであるというのがこの仮説である。我々人類は他者が何を考えているのか、何を思っているのか、何を言いたいのかを理解する能力に長けており、幼児の言語習得とパラレルな形でこの能力は上がっていく。この仮説にも様々な問題点があるのだが、ここではそれを一旦無視しておくとして、この仮説も、先のジェスチャー仮説同様、人間の特性を捉えたものであることは言うまでもない。
これらの仮説については、以下の参考文献を参照されたい。
Fitch, W. T. (2009). The biology & evolution of language: Deep Homology and the evolution of 
 innovation. In M. S. Gazzaniga (Ed.), The cognitive neurosciences IV (pp. 873–883). Cambridge,
 MA: MIT Press.
Fitch, W.T. (2010). The evolution of language. Cambridge: Cambridge University Press.
Fitch, W.T. (2011). Unity and diversity in human language. Philosophical Transactions of the Royal
 Society, B: Biological Sciences, 366, 376–388.
Tomasello, M. (1999). The cultural origins of human cognition. Cambridge, MA: Harvard University
 Press.
Tomasello, M., Hare, B., & Agnetta, B. (1999). Chimpanzees, Pan troglodytes, follow gaze direction
 geometrically. Animal Behavior. 58, 769–777.
Tomasello, M., Carpenter, M., Call, J., Behne, T., & Moll, H. (2005). Understanding and sharing 
 Behavioral Brain Science. 28, 675–691, discussion 691–735.
7 加えて、誰がどこでいつどのような親の元に生まれるのかは全くの偶然であることを考えると、後天的な経験やそれに基づいた人生もまた偶然の産物であり、もちろんそれに基づいて誰かを差別することもまた許されるはずがない。つまり、「俺/私は努力でここまできたんだ。だから俺/私より成功してない奴らは下だ」という人がいたとしても、そもそも「努力できるように整えられた環境」に生まれ落ちた時点で「運」が絡んでいるし、むしろこの「運」の部分のみが後天的な環境に作用しているため、このようなジャッジメントもまた馬鹿げているのである(「私は宝くじが当たった。お前は当たっていない。だからお前は俺より人間的に下の屑野郎だ」なんていう人がいれば、誰だって馬鹿げていると思うだろう)。ただし、「差別をするような人に育ってしまった環境に生まれた」という偶然の悲劇を認めたとしても、そのような人に「差別する権利」を認めるわけにはいかない。すなわち,某金髪坊主のお笑い(お嗤い)芸人がいうような、「差別する人を差別している!」という主張は成り立ち得ない。何故ならば、反差別とは、「一人ひとりの人格や価値観、基本的人権を認めること」が定義であるため、「差別する権利(価値観)」をその定義の中に含めてしまうと、語義矛盾を犯すことになるためである。したがって、差別してしまうように育ってしまった人に対して憐憫を掛けることは許されても、「差別する権利」を認めるわけにはいかない。

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