こんにちは。
筑波大学社会・国際学群国際総合学類に籍を置く、阿部修一郎です。
現在はラトビア共和国の首都リガにある「ラトビア大学」に留学をしています。
今回は、
- 留学とはどのようなものなのか
- ラトビア大学はどのようなところか
について、簡単に述べて参ります。

阿部修一郎
ラトビア共和国について
「ところで、ラトビアってどこ?」
留学前に幾度となく尋ねられた質問です。ボリビアと間違えられたこともありました。
まずは、ラトビアという国について簡単にご紹介します。
最近だと、安倍首相が1月に訪問されたことや、冬季五輪ボブスレー競技でのラトビア製そりの性能の高さ等で、国名を耳にした方もいるでしょう。
では具体的な位置はといえば、ヨーロッパの東端・ロシアの西隣・フィンランドの南側。つまりロシアを挟んで、日本の隣の隣の国。近いね!

面積は北海道よりもやや小さめ、人口は190万人弱と、規模はそれほど大きくありません。
首都・リガの旧市街は中世の街並みが良く保存されているとして、世界遺産に登録されています。ラトビアの観光の目玉で、日本人観光客もしばしば見かけます。
留学について
さて、留学生活が始まってから、早いものでおよそ半年が経過しました。
『留学』、と聞いてまるで何か別世界の出来事のように思う方もいるかもしれません(私はそうでした)。
そんな皆さんに吉報です。留学は、特別なことではありません。
朝はしぶしぶ起きて、ご飯を食べて、歯を磨いて、学校へ行って、放課後ぶらぶらして、ご飯を食べて、歯を磨いて、夜はすやすや眠る。
どこに行っても同じ人間。良くも悪くも生活ルーティーンは基本的に変わりません。
LCCを含め様々な航空機があちこちに飛び交う昨今、海外に行くことの時間的・経済的障壁は圧倒的に下がっています。
仮に私が今、地元のラーメンをどうしても食べたくなった場合、帰ろうと思えば15時間後くらいには成田空港に戻れてしまいます。
日常行動範囲圏内とまでは言いませんが、島国の日本にとってさえ、外国は決して空間的に遠い場所ではありません。
では、どうしてわざわざ母国語で学べる場所を離れて、海外の大学に行くのか。
- 海外のその大学でないと学べないことがある
- ある国・言語の学習や研究のために現地を訪れる
- 学部のルールで定められているから来る
等々、人によって理由は様々あります。
私個人としては、日本という国を離れたこと以上に、日本にいた時に所属していたコミュニティから長期間一時的に離れられるというところに、重きを置いています。世界中どこに行っても日本人は基本的にいますし、また日本にも外国人はいます。特に大学生であれば、留学生が身近にいる方も多いでしょう。
だからこそ、母国を離れるという意識よりも、地球上の別の街へ引っ越しをする。極端に言えば、隣町に引っ越しをするのと感覚的にはとりわけ大きな差はないと実際に留学に来てみて感じました。目的は何であれ、新しい人、新しいコミュニティ、新しい街や地域に出会える場へと積極的に移動すること自体に大きな意味があると思うのです。
哲学者・東浩紀氏の著書の中に次のような一節があります。
「ツーリズム」(観光)の語源は、宗教における聖地巡礼(ツアー)ですが、そもそも巡礼者は目的地になにがあるのかすべて事前に知っている。にもかかわらず、時間をかけて目的地を廻るその道中で、じっくりものを考え、思考を深めることができる。観光=巡礼はその時間を確保するためにある。旅先で新しい情報に出会う必要はありません。出会うべきは新しい欲望なのです。
この観光や旅の部分を、『留学』に置き換えても同じことが言えます。
当初から見据えた目的は何であれ、元居た場所から移動することで、予期せぬ知的欲望との出会いが起こる可能性はぐんとあがります。
私の場合は、それは言語についてでした。その点に関しては、次の項目にて述べていきます。
ラトビア大学について
私の留学しているラトビア大学は、13の学部(生物学部、コンピュータ学部、化学部、経営・経済学部、教育・心理・芸術学部、地理・地球科学部、歴史・哲学部、文献学部、法学部、薬学部、物理・数学部、社会科学部、神学部)が設置されている、ラトビア国内最大規模の総合大学です。
1919年にできた大学で、近隣のリトアニア・ヴィリニュス大学が1579年、エストニア・タルトゥ大学が1632年に開設されているため、バルト三国内の国立大学としては比較的新しい大学です。
日本の大学では、関西学院大学・国際教養大学・筑波大学・山形大学・早稲田大学等と提携しており、留学生を送り合っています。
この大学の大きな特徴としてあげられるのは、講義がラトビア語で行われていること。そしてラトビア国内で初めてそれを実施したことです。
ともすると、毎日当然のように日本国内で母国語を使用している私たちの場合、「え?それって当たり前じゃないの?」と思いかねませんが、ラトビアの歴史を振り返ってみると、そうとも言えません。
ラトビアが国として独立したのは、わずか100年前の1918年。それまではこの土地を治めていたのは近隣の諸大国です。
ロシア帝国時代に建てられた、ラトビア大学の前身であるリガ高等工業大学(polytechnic)にて、授業で使用された言語は、ドイツ語やロシア語。ラトビア民族の住む地域でありながら、ラトビア語による高等教育は行われていませんでした。
そのように、常にどこかの統治下にあったにも関わらず、『ラトビア人』という民族が存在し続けてきたのは、ラトビア語という共通言語があってこそ。19世紀末には北のエストニアに倣ったラトビア語による歌謡祭を開催し、民族意識の覚醒を促すなど、常に言語はラトビア民族のアイデンティティの根底にありました(この歌謡祭は歌と踊りの祭典となって現在も続いており、ユネスコの無形文化遺産に登録されています)。
だからこそ、ラトビアという国を存続させるために、ラトビア語による高等教育の充実は欠かすことができない要素となっています。
翻って、私たち日本人にそれを当てはめてみるとどうでしょう。
毎日注意しなければ特に疑問もなく、日本人として日本語を用いて暮らしている私たち。
しかし『日本人』という概念を成り立たせているものは実際のところ何なのか。
グローバル化が進行する現在において重要となるであろう、自身を成り立たせる『〇〇人』とはどんな概念なのか、という疑問をこの国や大学はダイレクトに与えてくれます。
参考文献
志摩園子『物語 バルト三国の歴史 エストニア・ラトヴィア・リトアニア』中公新書, 2004年
志摩園子 編著『ラトビアを知るための47章』明石書店, 2016年
東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』幻冬舎, 2014年