文学部生き残り大作戦β:「である学問」から「する学問」へ

「文学部でやることなんて役に立たない」

大学関係者、特に文学部やそれに類似した学部学科に所属する人にとっては耳にタコができるほど聞いてきたフレーズでしょう。文学部で学んでいる僕も、こうした言葉をよく耳にします。このような「役に立たない」という声に対する再反論の方向性は大きく2つあると思われます。1つは「そもそも役に立たなくてもよい」という反論。もう1つは「実は役に立つ」という反論です。

ここまで読んだ皆さんは「きっとこの次には、このどちらか、あるいは両方の立場をとって文学部を擁護するのだろう」と考えていることでしょう。けれど、僕の主張はちょっと違っています。僕の立場はこうです。

「文学部は役に立たねばならない。しかし、現状、役に立っていない」

そう、今の文学部を真っ向から全否定。それが僕の立場です。

おそらく「そもそも役に立たなくていいだろう!」と反感を持つ方も少なくないと思います。僕も同じ思いはありますが、それを通すために必要な環境が整っていないのではないか、というのが今の考えです。このことについては、記事の後の方で考えますが、とにかく文学部は今のままでは本当に危うい。それが僕の考えです。

けれど、そのまま文学部を潰せと結論付けるわけにはいきません。なにせ、僕も文学部で学ぶ人間の1人なのですから。そこで、僕がここで試みるのは「今のダメダメな文学部が生き延びる道は何か」を考えることです。学問の生き残りを、本気になって考えてみたい。それがこの記事の目的になります。

この「文学部生き残り大作戦」を決行するために、まずは現状分析を行ってみましょう。以下では議論を具体的かつ明確にするために、僕の専門である言語学/英語学(特に、ことばの仕組みそのものを扱う「理論言語学」という分野)を軸に議論を展開していきます。みなさんは、それを自分の専門分野や学問全体に適宜置き換えつつ、一緒にこの大作戦に参加してみてください。

もっちゃん

編集部。ことばを操る脳のはたらきを通して『人間”らしさ”って何だろう?』ということを考えている。「文理融合」「高大接続」という2本柱のモットーを引っ提げて、開かれた社会としての学問を模索したい。お昼寝が好き。朝の2度寝はもっと好き。

ADVENT CALENDAR 2018―11日の投稿

12月1日から24日までクリスマスを待つまでに1日に1つカレンダーを空けるという風習に習って、記事を投稿するイベント、それがADVENT CALENDAR!

「役に立つ」考

文学部の生き残りを考えるにあたって、まず「役に立つ」ということの意味から考えてみましょう。「役に立たない」と批判を受けているからには、その批判の内容を吟味することは必須です。

ここで「役に立つ」ということばは、少なくとも2通りに解釈できると思われます。1つは「人生を豊かにする」「価値規範や倫理観を提供する」などのことを含む広義の役に立つ。もう1つは「金になる」ということに焦点を当てた狭義の役に立つです。一般に「文学部が役に立つ」と言うときに念頭に置かれているのは広義の役に立つでしょう。2015年に日本学術会議から出された声明『これからの大学のあり方-特に教員養成・人文社会科学系の あり方-に関する議論に寄せて』には次のような文言があります。

「大学は社会の中にあって、社会によって支えられるものであり、広い意味 での「社会的要請」に応えることが求められている。このことを大学は強く認識すべきである。しかし、「社会的要請」とは何であり、それにいかに応 えるべきかについては、人文・社会科学と自然科学とを問わず、一義的な答 えを性急に求めることは適切ではない。具体的な目標を設けて成果を測定することになじみやすい要請もあれば、目には見えにくくても、長期的な視野に立って知を継承し、多様性を支え、創造性の基盤を養うという役割を果たすこともまた、大学に求められている社会的要請である。」

(強調は筆者による。)

ここでいう「社会的要請」は「役に立つこと」と言い換えて差し支えないでしょう。ここでいう「目には見えにくくても […] 創造性の基盤を養うという役割」というのは、広義の役に立つに相当するものと考えられます。
ここで問題になるのは、人文学は広義の意味で役に立っているのか、ということです。このことについては、同声明の次のような文言が目を引きます。

「一方、人文・社会科学に従事する大学教員は、変化が著しい現代社会の中で人文・社会科学系の学部がどのような人材を養成しようとしているのか、学術全体に対して人文・社会科学分野の学問がどのような役割を果たしうるのかについて、これまで社会に対して十分に説明してこなかったという面があることも否定できない。人文・社会科学に従事する大学教員には、社会の変化と要請を踏まえつつ、自らの内部における対話、自然科学者との対話、社会の各方面との対話を通じて、これらの点についての考究を深め、それを教育と研究の質的な向上に反映するための一層の努力が求められる。」

(強調は筆者による)

文学部を含む学問側は、これまで自分たちが広義の意味で役に立つことをきちんと「説明してこなかった」とあります。これはその通りでしょう。けれど、それだけでしょうか。説明してこなかっただけではなく、そもそも「役に立とうとしてこなかった」側面はないでしょうか。このことを、僕の専門である(理論)言語学を例に検討してみましょう。

言語学と言語教育

言語学が(広義の意味で)役に立つと言うとき、その1つの形として思い浮かぶのは言語教育への貢献です。教育は必ずしもお金になることだけを目指すわけではありません。特に公教育を念頭に置いて考えれば、言語学が言語教育に貢献することは「(広義の)役に立つ」例でしょう。

それでは、言語学は言語教育に対してどれほど貢献してきたのでしょうか。このことについては、厳しい現実を受け止めざるを得ないように思われます。というのも、言語学者自身が、自分たちがあまり教育に関与していないことを認めているからです1鳥飼玖美子・大津由紀雄・江利川春雄・斎藤兆史(2017)『英語だけの外国語教育は失敗する:複言語主義のすすめ』 ひつじ書房。たとえば「現在の英語教育は語学のスキル習得ばかりが重視されていて、ことばそのものの面白さを伝えきれていないのでは」という文脈の下で、次のように述べています。

林:ただ、その点に関しては、言語学者の責任もあると思います。つまり、面白いことですけれど非常にとっつきにくいかたちで、論文でないにもかかわらず、できるだけ正確に書かなければと思って、ついつい難しく書いてしまうみたいなところがあります。 […] 研究者と、例えば、現場の先生の間の結びつきとか、そういうものがこれからもっと必要になるのかなと思います。先生が教室で使えるような素材を、われわれが、例えば、学会のホームページにパブリックドメインとしてアップしておいて、これを使ってくださいと言うような。そういう活動が、これまであまりなかったのではないでしょうか。教育は教育、研究は研究って、分断されてしまっていたのではないかと
大津:あと、関連して、言語学者が、言語教育に関心が無さ過ぎるっていうのがあって…。

(鳥飼他, 2017: 107: 強調は引用者による)

ここで指摘されているのは、「言語学は(広義の意味で)役に立つこと自体を放棄してきたのではないか」ということでしょう。
もちろん、言語学を広く見渡せば外国語学習の仕組みなどを研究する応用言語学、外国人への日本語教育を研究する日本語教育学など、教育のまなざしを持った分野も存在しています。けれど、これらの「教育を志向した研究」と、純粋に「ことばそのものの仕組みや特徴を解明しようとする研究」との間の接点は希薄と言わざるを得ません。後者の分野に関する大学教科書等で、言語教育に関する内容が希薄であることは、このことを物語っているように思われます2例えば、風間喜代三・上野善道・松村一登・町田健 (2004)『言語学 [第2版]』(東京大学出版)は定評のある言語学のテキストですが、言語教育に関する章はありません。生成文法理論を軸に扱う理論言語学のテキストでは、たとえば大津由紀雄・池内正幸・今西典子・水光雅則 編(2002) 『言語研究入門:生成文法を学ぶ人のために』(研究社)がありますが、これも音声や言語の歴史、言語脳科学などの幅広い分野に言及しているものの、言語教育への言及はありません。

このことは「役に立ってはいるが、その説明が不十分だった」とは意味合いが随分異なります。そもそも役に立たせる努力を怠っていたとなれば、言語学者(特に、言葉そのものの仕組みを研究する言語学者)の責任はより重いと言わざるを得ないのではないでしょうか。

「である学問」と「する学問」

これまで見てきた通り、文学部、少なくとも僕の専門である言語学は自分自身が「役に立つ」ことに消極的だったと言えます。ただしこのことは「言語学は役に立つことが不可能である」ということではありません。「今、現時点においては役に立てていない」のです。裏を返すと、努力次第では役に立つ可能性が大いにあるということです。

この、現在の学問の状態を、丸山真男の「であること/すること」になぞらえて「である学問」と特徴づけてみたいと思います。彼は民法の事例から「であること」「すること」について次のように述べています。

学生時代に末弘(厳太郎)先生から民法の講義をきいたとき「時効」という制度について次のように説明されたのを覚えています。金を借りて催促されないのをいいことにして、ネコババをきめこむ不心得者がトクをして、気の弱い善人の貸し手が結局損をするという結果になるのはずいぶん不人情な話のように思われるけれども、この規定の根拠には、権利の上に長く眠っている者は民法の保護に値しないという趣旨も含まれている、というお話だったのです。この説明に私はなるほどと思うと同時に「権利の上に眠る者」という言葉が妙に強く印象に残りました。いま考えてみると、請求する行為によって時効を中断しない限り、たんに自分は債権者であるという位置に安住していると、ついには債権を喪失するというロジックのなかには、一民法の法理にとどまらないきわめて重大な意味が潜んでいるように思われます。

(強調は筆者による)

「~である」ことに安心せず、その権利や能力を実際に「する」ことの重要性を述べています。現代に向かうにつれて社会は「~である論理」から「~する論理」に移り変わっている。「~する論理」の社会は業績本位である、と丸山は言います。

この「であること」「すること」の区別は、現在の学問をよく特徴づけてくれます。すなわち、今の学問は「役に立つことが出来る、という状態である」その一方で「実際に役に立つことをする」には至っていないのです。

丸山自身は「文化的創造にとっては、ただ前へ前へと進むとか、不断に忙しく働いているということよりも、価値の蓄積と言うことがなにより大事だからです。」と、学問は「~である」論理の方を重視すべきと付しています。けれど、「~する」論理が加速する現代において、ひたすらに「~である」論理を固持する姿勢は、かえって周囲に取り残され孤立する結果を生むだけではないでしょうか。180度向きを変えるとは言わずとも、一歩だけ「~する」論理に歩み寄ることが、今学問に求められていることであるように思えてなりません。

先ほども引用した鳥飼他 (2017) の座談会の中でも、次のように述べる場面がありました。

林:これは他人事ではなくて、本当に言語学者は言語学の研究だけをやっていればいい時代ではもうなくなって […] 文科省の教職課程認定がものすごく厳しくなって、例えば英語学者とか、例えば、英文学をやっている人たちを大学で採用しづらくなっているわけです。 […] そうすると、専門的な研究者と言うのは、これから大学のポストからどんどん追いやられていく。実際に私も、ここひとつきぐらいの間でそういうケースを何件か見て、非常に残念な思いをしました。
 だから、言語学をやっている人たちが、教育の視点を持っていないと。そうして、欲を言えば、そういう部分で論文を書いて、きちんと啓発していくという意識を持たないと、大学の研究がどんどん弱まっていってしまうような気もするんですね。

(強調は引用者による)

「文学部生き残り大作戦β」のスタート地点は「『である学問』から『する学問』への転換」にあるのではないでしょうか。

「である」から「する」への転換に向けて

「である学問」から「する学問」へ。言うのは簡単ですが、行うのはなかなかに難しいことだと思います。最初に引用した座談会の一部を改めて引用してみましょう。

林:ただ、その点に関しては、言語学者の責任もあると思います。つまり、面白いことですけれど非常にとっつきにくいかたちで、論文でないにもかかわらず、できるだけ正確に書かなければと思って、ついつい難しく書いてしまうみたいなところがあります。

(強調は筆者による)

言語学者が英語教育について言及しようとすると、ついつい「難しく書きすぎる」という指摘です。言語のあるがままの姿を「正確に、丁寧に書き記し、説明する」ことを生業とする言語学者と、学習者の学びの負担や効率を考える英語教育とでは、ものの見方や判断基準がどうしても異なってしまっているということでしょう。英語教育では不必要なほどの厳格さを、言語学者は求めてしまう。それゆえの葛藤のようなものが生じているように思われます。

これは、いわゆる学問の「タコツボ化」の弊害なのではないでしょうか。言語学者は、英語教育の現状や、それが持っているまなざしをきちんと飲み込めていない。自分たちにとっての「外側の論理・まなざし」を理解しきれていない。それゆえに、言語学者が教育を語るとどうしても齟齬が生じたり、非現実的なほど難解な提案をしてしまう。

もしこれが事実なのであれば、われわれがまず行うべきは「外側を知る」ことなのではないでしょうか。自分たちの分野のコミュニティに引きこもらず、積極的に多分野の人と出会い、語り、知を共有する。そうして少しでも多くのまなざしを持つところから、「する学問」への転換がはじまるのではないか。それが僕の考えているところです。

「役に立つ」に抗して

ここまで「学問は役に立たねばならない」ということを前提に話を進めてきました。けれど、そもそもこの前提を疑う人も少なくないでしょう。

冒頭で述べた通り、僕は「文学部も役に立たねばならない」という立場です。けれど、内心では「役に立たなくてもいいじゃん」という気持ちもあります。「『役に立たなくてもいい』と言うために、役に立たねばならない」というのが最も正確な僕の立場です。これはどういうことか、少し説明していきます。

既にみた通り、現代社会は「~する論理」へと移ろいつつある、というのが丸山の主張でした。「~する論理」の社会は業績本位である、つまり何を成し遂げたかが重要視される社会です。これは「物事は役に立たねばならない」という風潮とも一致します。文学部廃止の声は、この「~する論理」に根を下ろしていると言えるのではないか、というのが僕の考えです。

その一方で、文学部をはじめとした人文系の学問や基礎科学は「~である論理」に根差している側面が強い。知の蓄積には積極的でも、その実用化に向かうには腰が重い。これは、ここまで検討してきたことから言えることでしょう。

「文学部は役に立つべき」というのは「~する論理」の意見です。その一方で「役に立たなくてもいい」というのは「~である論理」に由来する主張であると言えます。ですから「役に立つべき/立たなくてよい」という論争は、単に文学部についての論争を超えて、より広い「~する/~である論理」の衝突として捉えられるべきものだと言えます。

この衝突は2つの価値規範の衝突であると言えます。ただし、この2つの異なる価値観は対等ではないでしょう。おそらく、現代において優勢なのは「~する論理」です。その中で、一部の学者が「~である論理」をオルタナティブとして示している。あるいは、アカデミズムの世界だけが「~する論理」へと移ろうことが出来ずに取り残されている。捉え方は様々でしょうが、とにかく関係性は非対称的です。

そんな不利な情勢の中で「~である論理」を一方的に叫ぶだけではいずれ押し負けてしまうのではないでしょうか。現在多数派の「~する論理」に疑問符を付すことに異論はないとしても、その方法については検討の余地があるように思われます。
では「~である論理」を主張するにあたって、何が必要なのか。それを考えるために、丸山真男の先ほどとは別の論考『思想のあり方について3丸山真男(1961)「思想のあり方について」 『日本の思想』 岩波書店』を参照してみましょう。彼は、様々な文化や立場・思想が別個に内にこもり、他との交流や共通の基盤の無い日本の状況を「タコツボ型」の文化と呼びます。そして、タコツボ型の社会の弊害として次のようなことを述べています。

第一にその組織なら組織の中で通用している言葉なり、外部の状況についてのイメージなりが、組織の外でどれだけ通用するのかということについての反省が欠けがちになる。そこから組織内で通用している言葉を組織の外でその有効性をためしていくという努力が忘れられ、つまりイメージの層がいかに厚く、いかにくいちがっているかという現実が忘れられ、単に組織対未組織という問題、あるいは単にそれはまだ組織外の人が「真理」に到達していないんだという問題に帰着させられる。従って […] 「啓蒙」して、自分たちのイメージを普遍化すればいいという考えに落ち着く。

(強調は筆者による)

これは正に、現在の文学部が陥っている状況なのではないでしょうか。「文学部をなくそう、などと言う人は人文学の価値という『真理』に至っていないのだ。だから『~である論理』に基づいたわれわれの『真理』を(一方的に)啓蒙してやって、改心させねばならない」という、傲慢さが、どこかに見え隠れしてはいないでしょうか。丸山はまた次のようにも述べています。

その組織の中にいる人は自分たちのイメージに頼り、自分たちの間で自明のこととして、テイク・フォア・グランテッドとして通用する言葉に頼り切って安心していると、ある朝目ざめて見るとまわりの風景はすっかり変わっているということになりかねないのであります。

「文学部は役に立たなくてもよい」「学問はそれだけで高尚で、価値がある」といったことを自明視していると、ふと気づいたとき周囲の環境はすっかり変わってしまっていた。それが今の文学部の状況なのではないでしょうか。

そうであるならば、我々は「~である論理」の擁護のために(広義の)政治的駆け引きにもっと積極的に従事しなければなりません。内内の、同じ価値観を共有する人々と集まって安心しているのではなく、異なる価値観を持つ他者と対話し、新しい価値観を提案し続ける努力を重ねる必要があります。

この「対話」の努力の出発点が「役に立つこと」なのではないか、というのが僕の考えです。丸山は「タコツボ化」した社会においては、共通の認識や言葉がないために、他者との論争が食い違ってしまうということを指摘しています。であるならば、われわれはまず、対話する相手である「~する論理」と共通の基盤を持つよう努めなければならない。つまり、タコツボから脱していかねばならない。その一番わかりやすい手段は「いったん、相手の立場を認め、そこに立ってみる」ことではないでしょうか。一度「~する論理」を認め、飲み込んでみる。そうして、同じまなざし、視線を共有したうえで、再度批判的にそれを検討する。そういうプロセスを経ることなしに「~である論理」を主張することはできないのではないでしょうか。

「文学部は役に立たなくてよい」と主張するには、主張する相手、すなわち「役に立たねばならない」という立場のことをまず知らねばならない。対話の場を整える努力なしに、自分たちの意見を叫んでも仕方がない。おそらく劣勢にあるわたしたちが生き抜くためには、そういう対話・政治的駆け引きの努力をもっと行わなければならないのではないか。それが僕の立場です。

まとめ:じゃあ、僕は何をする?

ここまで「文学部生き残り大作戦β」を立ち上げようとあれこれ考えてきました。議論をざっとまとめると次のようになります。

  • 文学部は(広義の意味で)役に立てていないし、その努力を怠っている
  • 「(広義の意味で)役に立つ」ために、まずは相手の論理を知らなくてはならない
  • 「役に立つべき」という立場を知り、またその努力をすることは、「役に立たなくてもいい」という価値観のオルタナティブを提示するためにも必要である

ではこれを踏まえて何をしていくか。

僕個人としての来年度の目標は「学びの場をつくる」です。「言語学と言語教育」「ことばそのものを研究する理論言語学と、言語教育も考える応用言語学」のように学問の知と臨床/実践をつなぐような、そういう学びの場を実際に作ってみたい。その中で、「~である論理」と「~する論理」とが語り合うための共通のまなざし、言語を作り上げていきたい。そんな目標を抱いています。

そんな「文学部生き残り大作戦β」ですが、あくまでこれは「β版」です。様々な取り組みを行う中で、きっと新たな課題が次々出てくるはずです。Try & Errorの繰り返しの中で、β版の大作戦を、どんどん本格化させていく。この記事が、その第1歩となることを願いつつ、記事を終えたいと思います。

Footnotes   [ + ]

1. 鳥飼玖美子・大津由紀雄・江利川春雄・斎藤兆史(2017)『英語だけの外国語教育は失敗する:複言語主義のすすめ』 ひつじ書房
2. 例えば、風間喜代三・上野善道・松村一登・町田健 (2004)『言語学 [第2版]』(東京大学出版)は定評のある言語学のテキストですが、言語教育に関する章はありません。生成文法理論を軸に扱う理論言語学のテキストでは、たとえば大津由紀雄・池内正幸・今西典子・水光雅則 編(2002) 『言語研究入門:生成文法を学ぶ人のために』(研究社)がありますが、これも音声や言語の歴史、言語脳科学などの幅広い分野に言及しているものの、言語教育への言及はありません。
3. 丸山真男(1961)「思想のあり方について」 『日本の思想』 岩波書店

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テーマ:日常の視点が思わずゆらぐ学習・活動秘話

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