筑波大学『雙峰論叢』の試み―文系不要論へのカウンターとしての挑戦

はじめまして、筑波大学人文・人文学類3年のさえです。大学では古代オリエント史を専攻していますが、今日は私がここ半年活動している『雙峰論叢』について紹介したいと思います。

『雙峰論叢』は有志学生が自分の専門について自由に論考などを書き、寄稿する紙媒体のプラットフォームです。

昨日、友人のふみやの寄稿でもメインテーマにもなっていた、哲つくばから影響を受けて派生した一連のムーブメントの1つです。特に哲つくばなど様々な「~つくば」ではトークイベントという特色上、成果が形として残りにくいという問題点が挙げられます。そのため、成果を残す場所が必要だと考えたため、ならば作ればよかろうと、運営を始めました。

ADVENT CALENDAR 2018―4日の投稿

12月1日から24日までクリスマスを待つまでに1日に1つカレンダーを空けるという風習に習って、記事を投稿するイベント、それがADVENT CALENDAR!

『雙峰論叢』は何をめざしているのか

その説明をするために、私の大学生活について軽く触れます。

私は中学生の時から西アジアという地域が大好きで、大学では古代オリエント史をやると心に決めて入学したタイプの人間です。今までの大学生活の途中、中東問題などに心を奪われることがあり、転類を考えたこともありましたが、先輩から(親しみを込めて)「オリエント女」と罵られる程度にはずっと自分の関心に対して愚直に勉強をしていたと思います。

このスタンスに対し、見直すべきなどの批判をいただくときもありました。しかし、3年生になるまで、私は今までの自分のスタンスを変えようとはしませんでした。ひょっとしたら、研究者として活躍されている方々にお会いしたり、AREという筑波大学独自の研究者体験プロジェクトに採択された結果、自分に酔っていたのかもしれません。

そんな私は『雙峰論叢』を学際的な場でありつつも、自分達の勉強成果を色んな人に知ってもらえる場にしようと思っていました。特に、研究志向であることが珍しいという現状を変えたい、大学生とは遊ぶもの、そんな認識を壊したい。そう強く願っていました。

しかし、運営を行いながら海外の学生と交流をする経験に恵まれたことを通して1つの気付きを得ました。

「うん、自分って大して世界を知らないね?まだまだ存在だから、そんなに大きな顔はできないね?」

自負してた内容の対極にある事実を私は認めました。どんなに頑張ったつもりでいても、同じ世界や世代には自分が直接知らないだけで沢山の凄い存在がいる。そしてそれはあくまで氷山の一角。

私は筑波の外の世界を知り、自らが井の中の蛙であったことを学びました。

そして、大いに悩みました。

(既に当時『雙峰論叢』第1号は始動していました。私のそのスランプの為に、第1号参加者の方々には多大なる迷惑をかけてしまいました。)

というのも、『雙峰論叢』の最初のスタンスがあまりにも高圧すぎはしなかっただろうか、という疑問が生じたからです。

私は当初、既に上述した理由から『雙峰論叢』を起案しました。しかし、それは当時の私の立場の問題もあり、”勉学を頑張る人”の視点からの欲求がとても強かったのです。そのため、無意識のうちに”勉学を頑張る人”から”そうでない人”への上から下へ伝えるような構造を作り出してしまいました。これは今思うとかなり傲慢であったと思います。

実際に、ある「〜つくば」に参加したことがある友人からも、”勉学を頑張る人”の傲慢さを指摘するコメントを寄せられたこともありました。

更に、既に昨日のふみやの投稿で「知的頭でっかち」問題も提示されましたが、他にも「参加者のお客様気分」が抜けきらないのではないか、という問題があります。運営が機会を提供し、それに参加者が乗っかるだけ。その風潮があります。運営が設計を作り、それに参加者が乗っかる。確かにそういう設計をしましたが、それはあまり褒められたことではなく、ただの一方通行なのではないでしょうか。正直、この消費行動にはあまり誇れるものがあるとは思いません。

なのに、無意識のうちに「研究することが偉い、人より進んでいることが偉い」というように思うようになってしまいました。そして他人が用意した場所でお客様として楽しむ消費行動のみをとってきたような。

そこまで思考したところで、ふらりと疑問に突き当たりました。

……それって文系学問を取り巻く現場にも言えるのでは?

私たちは個別に「この学問は大事だ」とは声をあげたりしてきましたが、それを”社会”にしっかり伝えてきたでしょうか。あまり、自分達が「なぜ」、「どのような」学問を学んでいるのかを伝えてこなかったように思います。学問をとりまく環境が変化しているのに、”お客様”でいたせいで取り残され、そのせいで不要じゃないかなどと言われてきたのかもしれない。

ひょっとしたら、ある種の社会性とでもいうべきものが欠落していたからこそ、取り残され、文系不要論を育んでしまったのかもしれない。これはいけない、そう強く感じました。

研究志向の学生だけで固まるのではなく、それ例外の学生以外とも交流し、自分達に何ができるのかを真剣に考えるべきだと思いました。それでこそ、私が当初目指していた「研究志向であることは珍しい」といった現状を変えられるのではないか、とも。

誰かが偉いとかいうそういう傲慢さを捨てて、自分が/相手がどんな学問をなぜしているのかなどを知り、互いにインタラクティヴになることでこの問題を解決できるんじゃないだろうか。ある意味、アカデミックコミュニケーションとでもいうべきものを強く意識するようになりました。

そのため、現在では2019年4月に2号刊行を目指して、
・自身の専門性を磨く場
・学問に限らずコミュニケーションを図る場
という2点を意識して企画立案・運営をしています。特に後者こそ私が最近最も問題だと感じているもの、文系不要論と「学生は遊ぶもの」というイメージ、この2つを解決、いえ、壊すためにも役に立つと考えています。

最後に、私は現在大学卒業後は一先ず就職をしようと考えています。研究以外の世界を知ることが必要であり、研究志向の人以外の視点も養いたいと考えているからです。残る在学期間は1年と少し。

どこまで挑戦できるか、ギリギリまで試してみます。

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