2020年は私にとっての「好き」とはなにかを問い続けた1年間でした。ここでの「好き」は、触れると心がわくわくするもの、としたいと思います。
私はどちらかと言えば、周囲の人々が喜んでいることに嬉しさを覚え、周りのためなら自分自身の「好き」に鈍感になる傾向にありました。その影響もあって心から「好き」と思うものを他者に共有することに対して抵抗がある人でした。おそらく共感されないことへの恐怖が人一倍強かったのだと思います。そのような中で、自粛生活、留学延期、就職活動という自分自身に向き合わざるを得ない期間に入り、「好き」が分からない苦しさを覚えました。執筆にあたり、先住民族についてのテーマと迷ったのですが、研究の根底にあろう「好き」を軸に1年間を振り返っておきたいと思うようになりました。そこで今回は、ペルー留学延期と就職活動開始に始まる私自身の「好き」とはなにかを問い続けた日々について書き記していこうと思います。
ADVENT CALENDAR 2020―9日の投稿

12月1日から24日までクリスマスを待つまでに1日に1つカレンダーを空けるという風習に習って、記事を投稿するイベント、それがADVENT CALENDAR!
「私ってそんなにペルーのこと好きじゃなかった?」
2020年4月。そもそも当初2020年は、「好き」にどっぷり浸かる1年となる予定でした。大学院に進学をして、おもしろそうな授業を履修して、8月からはペルー留学をして、研究調査をして…。しかしながら、大学院進学と授業に関してはともかく、新型コロナウイルス感染拡大後、大学1年次から準備をしてきたペルー留学は延期となり、4年越しの夢ははかなく散ってしまいました。白紙に戻った留学計画・研究計画を前に、悔しさ、虚しさ、悲しさに包まれた私の「好き」は、すっかり冷め切ってしまいました。今考えれば、あまりに衝撃的な出来事であったがゆえのことで、一種の「揺らぎ」だったと思いますが、当時は「いやこんなことで冷め切っていいの?そもそもそんなに好きじゃなかったのでは?じゃあ私の好きって何?」という問いに追い詰められていました。
「…あとは、好きなものとか趣味とかを言ってください」
2020年5月。修士課程修了後に就職を考える私の場合「留学延期=就職活動の始まり」を意味していました。私の認識が間違っていなければ、就職活動は自分自身を見つめ「何をしたいのか、何が好きなのか」を問いかけるところから始まるようです。さらに、インターンシップに行くと、大抵1分間の自己紹介に好きなものや趣味を含めるように指示されます。自然と、コンパクトかつウケの良い「好き」なものを選定し、それをテンプレート化している自分に「本当にそれ好きなの?」と少し嫌気がさし始めていたのでした。
こうして、留学延期と就職活動をきっかけに、私の「好き」とは何なのか?を問い続ける日々が始まりました。そのような中で、オンライン上で学類の同期たちと私の中の「もやもや」について話す機会に恵まれました。ここでは2人の同期から投げかけられたことばを紹介していこうと思います。
「自分が好きでやっていることだから、共感されなくてもいい」
2020年6月。見聞きしたもの、感じたもの、そして生み出したものを発信し続けることに対して「怖くない?」と尋ねた時、その同期はこう言いました。私から見える彼女は、文字通り世界を跳び回り、自分自身が得た経験を、SNSを通じて他者に発信していく人物です。「逆に何が怖いの?」、そう彼女に問われた時、私は「好き」を共有した時に共感を得られないのではないか、さらには他者からの評価が変わってしまうのではないかということが怖い、と話しました。彼女はさらにこう続けます。「自分から言わないと分からないし、そうしないと仲良くなるきっかけはなくなっちゃうよね。」つまるところ、彼女にとって「好き」の発信は、意識的な自分表現や他者との知の共有を主な目的としており、そこに共感の有無や評価への恐れは不要なのかもしれません。彼女のことばたちにハッとさせられつづけていた、そんな梅雨の日の夜を今もときどき思い出します。
「本当に好きな時は、他の人がなんと言おうとも、好きって言うよね」
2020年10月。酔いも回った真夜中、「好き」とはなにかを語っていた時にマブダチに言われたことばです。確かこの時は、「好き」がなにか分からないという私に対して、“食い意地が張っているわたし”を例にマブダチが話しているという場面だったと思います。出だしのことばに納得のいかない顔をしていたらしく、マブダチはこう続けました。
「いや、食べ物の話になるとさ、他の人がこれ嫌い、ここが嫌って言っても、キミはえー美味しいじゃん、わたしこれ好きだもんって聞かないやん?そう言うことだよ。」そんなことばに、無意識下で恐れることなく「好き」を共有している自分自身に気づかされました。6月の私とは矛盾しつつも、誰かと話す中でふとした時に自分自身の「好き」を共有しており、その語りを聞いている誰かの方が私の「好き」についてよく知っているのかもしれない。あるいは、過去の相互行為の記憶を通して、その誰かから「好き」への気づきを得ているのかもしれない、そう思った雨の日の深夜でした。
おわりに―結局、「好き」とはなにか
ここまで、今回の問いのきっかけと、2人の同期とのことばを紹介しながら「好き」とはなにかを問いつづけた日々の一部を書き記してきました。
ここで、この1年で導き出された私なりの仮説を示そうと思います。まず、「好き」への気づきは「他者との相互行為」の中で生まれるのではないかということです。私たちは無意識のうちに、「好き」なものを他者と共有しています。その他者との対話あるいは対話の振り返りを通して、自分自身の持つ「好き」を自覚しているのかもしれません。さらに、「好き」は強弱という揺らぎを持ちつつ、時に意識的に共有することで他者との繋がりを強めることもあるのではないかということです。しかしながら、そのとき「好き」の価値観が一致しなくとも、そのままでいいと思います。当たり前と言えばそうかもしれませんが。
「好き」とはなにか。この問いを、来年も再来年も仮説を実証しながら自分自身に、他者に問いつづけていこうと思います。最後になりましたが、執筆にあたり、対話の掲載を快諾してくれた同期2人に心から御礼を申し上げます。