死なない読書会、生まれない読書会:他者と学ぶ作法と意義(後編)

前編では、私自身の読書会経験の分析を通じて「読書会が成立するための条件」を考察しました。そして、読書会が成立するためには「1人で学べること」が大切だという結論に至りました。この後編ではこの点を更に深堀することで、1つの学習者像を描いてみたいと思います。

もっちゃん

ことばを操る脳のはたらきを通して『人間”らしさ”って何だろう?』ということを考えている。「文理融合」「高大接続」という2本柱のモットーを引っ提げて、開かれた社会としての学問を模索したい。お昼寝が好き。朝の2度寝はもっと好き。

ADVENT CALENDAR 2020―3日の投稿

12月1日から24日までクリスマスを待つまでに1日に1つカレンダーを空けるという風習に習って、記事を投稿するイベント、それがADVENT CALENDAR!

1人で学べるのに1人で学べない?

前編では「他者と学ぶためには1人で学べることが必要だ」と結論付けました。しかし、ここでふと疑問が浮かんできます。そもそも、1人で学べるような人は読書会のような場を必要とするのでしょうか。この疑問はもっともだと思われます。常識的に考えるならば「1人で学ぶことができないからこそ、人と協力して学ぶ」のだ、という結論になりそうなものです。一見すると矛盾しているように思われるこのジレンマは、どうして生じるのでしょうか。

このジレンマを紐解くヒントは、読書会の進め方と性質にあります。

(主に人文系の)専門分野を学ぶための読書会では、専門書や論文を事前に読み込んできたうえで、その内容についてディスカッションすることがほとんどです。したがって、おのおのの参加者はあらかじめ「1人で文献と向き合う」ことが求められます。ここで生じる私たちの疑問は「1人で文献に向き合えるような人なら、読書会に参加しなくても良いんじゃないの?」ということでした。

この疑問に対する僕なりの答えは次の通りです。

「不完全ながらも自分なりの読みを行ってきた個々人が、その“読み”の欠片をパッチワークのように繋ぎ合わせることで、協力して理解を深めるのが読書会である」

ここで「1人で学べる」ということばが意図しているのは「自分なりに学ぶ姿勢を持っている」ことであって「1人で完璧に学ぶ」ことではない、ということです。不完全で、時に誤りを含むような自分なりの理解を持ち寄って吟味する場が読書会であり、これこそが人と一緒に学ぶ最大の意義なのだと考えています。

読書会は「各自が“自分なりの読み”というパズルのピースを持ち寄ることで、全体としてより深い理解にたどり着く場」だと理解できます。そして、このような場が成り立つには各参加者があらかじめ自分なりの理解というパズルのピースを用意できることが求められます。この過程はまさしく「1人で学ぶ」ことそのものです。お互いが持ち寄った理解でもって、お互いの理解の穴を補い合い高め合う。そうした相互扶助の関係が成り立つからこそ学び合いは成立するのであって、1人では何も学べないという人は、そもそも人と学ぶような段階には達していないと言えるかもしれません。

エゴイスティックな学習者の倫理

ここまでの考察を整理してみましょう。僕たちは、「読書会」の成立のために必要な要件を順を追って考えてきました。まずは人と人がつながること。次に、そのつながりが「関心の可視化=とがる」ことに起因した繋がりであること。そうした「とがった」人は、不完全ながらも自分なりの学びを行える人で、そうした不完全な理解を持ち寄れることが読書会の成立に不可欠であるということ。ここまでの考察は、読書会に対する新しい見方を提供するかもしれません。

既に述べたように、読書会は「お互いの理解の穴を、お互いの“自分なりの読み”によって補いあう場」だと言えます。これを別の角度から言いかえると「自分の分からないところを人に補ってもらうために読書会を行う」のだと言えます。根底にあるのは、自分の学びを助けてほしいという「エゴ」です。この点で、読書会の参加者はエゴイスティックな学習者であると言えます。

ですから、人と一緒に学ぶためにはそもそも自分は何を学びたいのかを分かっている必要があります。これを学びたい、という強いエゴがあるからこそ学び合いは成立するのです。エゴ無きところに読書会はありません。

しかし、一方的に教えを乞うだけでは、理解を「補い合う」という読書会の成立要件を満たすことができません。求められるのは自らのエゴを満たしてもらう代わりに他者のエゴも満たすという互恵的関係です。読書会は、エゴの交錯地点だと言えそうです。こうしたエゴのぶつかり合いが均衡を保ちながら場を作るには、参加者がきちんと予習をし「自分なりの読み」を必ず持ち寄ることが欠かせません。1人で学ぶ(=予習をする)ことは、読書会参加者の責任であり、他の参加者のエゴにも配慮するという「エゴイスティックな学習者の倫理」なのです。自らのエゴのために他者と学び、他者のエゴのために1人で学ぶという互恵性と自立性の中にこそ読書会の本質があります。漠然と「1人よりは皆と一緒の方がいい」と思うだけのモチベーションでは、読書会は成立しないのです。

死なない読書会、生まれない読書会

読書会はエゴイスティックな学習者のエゴを互恵的に満たす、エゴの交錯地点です。そして、そのような場に参加するだけのエゴイスティックな学習者の倫理を持った人でないと、人と学ぶことは難しいのではないか、というのがここでの結論です。翻っていうと、自らのエゴ(=「~を学びたい」という動機と、実際に1人で学ぶ姿勢)を持ったうえで、他者のエゴに配慮できることで、人と共に学ぶ、読書会の可能性が開かれていくと考えられます。

コロナ禍の自粛期間においては、このようなエゴを持っていたとしてもそれが出会う機会が失われていました。このことは、僕が新たに立ち上げた読書会が既存の人間関係を拠り所にしていたことからも分かります。その意味で、自粛期間中に0から読書会が生まれてきたわけではないと言えます。人と人とが出会うという読書会の成立要件が満たしにくかったという点で、コロナ禍は読書会の誕生を大いに妨げたと言えるでしょう。

しかし、コロナ禍がなければ直ちに読書会が生まれていたかと問われれば、「否」と答えるほかないでしょう。人と人とがつながる以前の前提条件としてエゴイスティックな学習者であることが求められます。そうしたエゴ無くして人とつながっても、そのつながりが学びに繋がる見込みは低いと言わざるを得ません。

逆に、1度交錯したエゴは、そう簡単には途切れません。コロナ禍にあっても、読書会を継続できていたことから分かるように、1度健全な学びの場ができれば、その維持は(場を作るのと比べると)容易です。必要なのは場を運営するノウハウと、各参加者が「倫理」を持って場に挑むことだけです(読書会運営の技術的側面については、こちらの記事も参照してください:https://note.com/motomizu/m/m8cc792a12acd)。

人と人とが新たに出会う機会が失われ、それによって学びの機会さえも失われました。しかし、ただ人とつながるだけで読書会が生まれ出てくるわけではありません。人とつながる以前の読書会成立条件を考えることで、倫理を持ったエゴイスティックな学習者という、1つの学習者像にたどり着くことができました。これが最上の学習者像だ、とは言えないまでも、確かに1つの模範として追求する価値はあると思います。コロナ禍特有の事例を通して、コロナ禍であろうとなかろうと変らない学びの作法の1つの形に至ったわけです。

もちろん、ここでの考察は僕自身の個人的・個別的事例から出発したものです。十人いれば十通りの経験があり、そこから導き出される学びの作法があるでしょう。そうした学びの作法をそれぞれが検討し、相互に比較しあう中でよりよい学びの形を追求していく。それもまた1つの読書会的営みと言えそうです。その第一歩となるパズルのピースを、ここに書き残して筆をおきたいと思います。

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