死なない読書会、生まれない読書会:他者と学ぶ作法と意義(前編)

もっちゃん

ことばを操る脳のはたらきを通して『人間”らしさ”って何だろう?』ということを考えている。「文理融合」「高大接続」という2本柱のモットーを引っ提げて、開かれた社会としての学問を模索したい。お昼寝が好き。朝の2度寝はもっと好き。

ADVENT CALENDAR 2020―2日の投稿

12月1日から24日までクリスマスを待つまでに1日に1つカレンダーを空けるという風習に習って、記事を投稿するイベント、それがADVENT CALENDAR!

コロナ禍の読書会

新型コロナウイルスが猛威を振るう中、多くの大学生は自宅に留まることを強いられ、オンラインツールによる授業と課題をこなしながら過ごしていました。その中で、大学生同士のつながりの希薄化が叫ばれたり、「教室で同級生と一緒に学ぶことが大切だ」といった意見が散見されるようになりました。

大学生の1人である僕も、やはり人のつながりの希薄化を感じていました。授業の合間に、同級生や先輩方とふと廊下で出くわして思わず会話が弾む。そうした何気ない時間が、いかに新しいアイディアを生み出していたかを痛感する日々が今も続いています。

一方で、コロナ禍でも変らずにいたこともあります。それが「読書会」です。大学の(特に人文系での)読書会は、専門文献の講読・内容に関するディスカッションを行う場を指し、大学での学びの大きなウェイトを占めます(詳細は、こちらの記事も参照してください:https://note.com/motomizu/n/n710290b8d9a1?magazine_key=m8cc792a12acd)。コロナ禍でも、研究室の院生読書会はオンラインで問題なく行われましたし、友人と行っていた自主読書会も継続出来ました。それどころか、コロナ禍の中にありながら友人と新しい読書会を新たに始めることさえしました。

なぜ、コロナ禍にありながら読書会を継続し、更には新たに発足することができたのでしょうか。また、そもそもコロナ禍以前と以後とで「読書会」の在り方や生み出し方に差異はなかったのでしょうか。この記事では、コロナ禍における僕自身の読書会経験を詳しく振り返ることで(1)読書会(≒学び合いの場)の性質や成立条件をかんがえ、(2)コロナ禍でも変らない学びのお作法について考察してみたいと思います。

資本としての人間関係

上で、コロナ禍においても読書会を新たに立ち上げることができたと述べました。まずはその経緯を簡単に見返してみましょう。

コロナ禍の中で新規に立ち上がった読書会は2つあります(また、この原稿を執筆している間にもう1つ別の読書会を立ち上げようという話が進んでいるところです)。この新たに始めた読書会のうち、1つは「相手から声を掛けられて一緒に始めた読書会(勉強会)」で、もう1つは「研究に関する議論の中で話が持ち上がり始めた読書会」です。両者の共通点は「既に出来上がっていた人間関係をもとに読書会を発足した」という点です。

おそらく、コロナ禍の中で大学生、特に新入生の多くが苦しんでいる最大の理由はこの点にあるのでしょう。つまり、学びの出発点になるような人間関係を築く機会がないために、二進も三進もいかなくなっている。逆に、コロナ禍以前に人間関係が多少できていた僕は、それを元手に学びの場を作ることができた。このように考えると、人間関係は学びを充実させるための資本と言えるかもしれません。

確かに、人との繋がりがなければ「共に学ぶ」ことは不可能です。しかし、ただ人とつながってさえいればよいのでしょうか。例えば、趣味でつながった友人やサークル・部活でできた人間関係でも読書会に繋がるでしょうか。

もちろん、原理的には人と繋がってさえいればそこから学びの輪が広がる可能性が生じるでしょう。しかし、現実には「友人が多い」人が「たくさん学びの場を生み出している」とは限らないのではないでしょうか。つまり、学びの資本になる人間関係と、学びには繋がりにくい人間関係があると言えそうです。「自粛期間さえなければバラ色の大学生活」とはいかないのが現実でしょう。

つながりが学びに繋がるために

人とつながることは学びの輪を作るはじめの一歩です。しかし、それだけでは読書会にはたどり着きません。では、人間関係と読書会の間にあるギャップを埋めるものは何でしょうか。

再度僕の具体的なケースを振り返ってみましょう。たとえば、読書会をしようと僕に声をかけてくれた友人は、どうして僕に声をかけようと思ったのでしょうか。もし彼が僕の専門分野を知らなかったらどうでしょう。「何をしているのか・何に興味があるのか分からない人」に対して、一緒に勉強しようと声をかけたでしょうか。

もう1つの、研究の議論から読書会に繋がったケースはより明らかでしょう。議論の中で両者の「学びたいこと」が一致していると分かったからこそ、読書会の話が浮上したことは確かです。

ここから推測されるのは「関心が共有・可視化されていることが、読書会の発足に必要」だということです。翻って言うと、明確に学びたい内容を持っていない人が他者と学びの場を作ることは難しいとも考えられます。

ここまでで、人と一緒に学ぶためには自分の関心が他者に可視化されていることが必要そうだ、ということが分かってきました。僕はこのことをよく「とがる」と表現することがあります(たとえばこちらの寄稿記事https://note.com/university1step/n/n4f1bf9291061?magazine_key=m712a4c7f8869)。自分の専門分野や興味のあるトピックを持ち、自分なりにそこに挑み続ける。特にその過程をして「とがる」と呼ぶことが多いのですが、この「とがる」ことが人と学ぶ上で重要なステップになると考えられます。

そして、「とがる」ためには、まずは自分自身の興味関心をもち自分1人で学び続けることが必要不可欠です。自ら学ぶ姿勢を持ち、それを実践するからこそ「この人と一緒に学んだら得るものがありそうだ」という周囲からの信頼を勝ち取ることができるのではないでしょうか。そうした信頼に基づく人間関係こそが、読書会につながる人間関係であるはずです。

ここまで、読書会を成立させる条件(=他者と学ぶために必要なもの)を考えてきました。その結果、人との繋がり以前に必要なものとして「1人で学び続ける姿勢」が大切そうだ、ということが明らかになってきました。続く後編の記事では、この論点をさらに突き詰めながら、1つの学習者像を描き出してみたいと思います。が、ひとまず前編はこの辺で。

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