
佐藤智子
ADVENT CALENDAR 2020―19日の投稿

12月1日から24日までクリスマスを待つまでに1日に1つカレンダーを空けるという風習に習って、記事を投稿するイベント、それがADVENT CALENDAR!
「コロナ禍」と学習空間のオンライン化
2020年を振り返ると、新型コロナウィルス感染拡大によってもたらされた世界規模の影響を外すことはできない。私たちはそれを「コロナ禍」と表現する。確かに、この未知のウィルスは、直接的に多くの人々の命を奪ったのみならず、人々の絆を断絶させ、経済に甚大なダメージを及ぼし、間接的にも多くの人々の健康で文化的な生活を壊していった。一方で、そのような「禍」を乗り越えるべく、オンライン世界が拡張し、充実し、私たちはオンラインの可能性を目の当たりにすることとなった。
大きな影響を受けたという点で、大学も例外ではない。大学教員としての私の立場から見ると、2020年は、教育のあり方やあるべき姿が根本的に問い直された一年であった。事実として、この「コロナ禍」により、学習が行われる空間は、短期間で急速にオンライン世界に拡張したと言える。インターネットおよび各種デバイスの普及などの社会的インフラがすでに用意されていた点も大きいが、「コロナ禍」は、すでに存在しながらも人々に有効に活用されていなかった様々な技術に脚光を浴びさせ、その有用性を私たちに認知させ、学習空間のオンライン空間への拡張を促進し、従前には不可能だったつながりの創発・維持を可能にしたのである。
教育においては、何十年も前から、遠隔教育や通信教育が行われていた。しかし、この遠隔教育・通信教育は基本的に、一定の教育計画の下で、教材を受講者に送付し、設問解答、添削指導、質疑応答等を行う教育(社会教育法第50条)のことであって、同時的・対面的な教育とは異質の特徴を有するものだった。教材送付だけなく、テレビやラジオにより映像や音声を通して授業が行われてきた例も多く存在するが、その大半は事前に収録した動画や音声によるものである。一方で、「コロナ禍」が拡張させたオンラインの学習空間は、同時的で、オンラインでありながらも相手の顔を見ながらコミュニケーションができる対面的な学習を可能にした所に特徴がある。つまり、空間的な隔たりはあるが、時間的な隔たりのない同時的で双方向的な学習が、オンライン上で行えるようになったのである。
「コロナ禍」は大学教育の質を低下させたのか?
しかし「コロナ禍」下では、日本のみならず世界中で、オンライン化された大学の授業の「質の低下」を訴える動きが各地で起こった。その不満の中心を占めているのは、事前に用意された資料と動画による、ほとんど「自習」するような教材送付・添削指導型授業やオンデマンド型授業である。不満の大半において、授業のオンライン化に伴う「教員や他の学生との繋がり・交流の機会の喪失」が言及される。同時に、オンデマンド授業の準備における教員の負担の大きさも指摘されている。通常の対面授業の何倍もの時間をかけて作成した動画に対して、学生から「質が低下した」と言われては、教員としてはやるせない。しかし、学生の中からも、自分のペースで学ぶことができるオンデマンド授業を前向きに評価する声もある。
仮説的に述べるならば、オンデマンド型・リアルタイム型を含めて、オンライン授業それ自体が教育の質を低下させたのではなく、授業のオンライン化に際して、授業という教育実践を実際に構成していた重要な要素を見誤った点に問題があったのではないだろうか。急激なオンライン化に伴って、一方では学習者のペースで学ぶことを可能にし、学習者の状況に応じた個別最適化された学習を可能にしたのは利点であった。その反面、オンライン化に短期間で対応せざるを得ない中で、これまで大学で推奨されてきていたはずの双方向での学び合いを犠牲にし、そぎ落としてしまったところに問題があったと思われる。
では、オンライン授業では、技術的にも理論的にも、双方向の学び合いは不可能なのだろうか。答えは、否である。現在の技術は、授業時間内外を含めて、十分にオンラインでの同時的かつ双方向的な学び合いを可能にしている。その利用可能な技術を、どう実際に活用するのかという、人間の意識と応用力こそが問題の本質であったように思う。大学教育のこれまでの歴史的な蓄積からは、洗練された学術的な知識をどう効率的に教えるかという点で多くの知見を見出してきたに違いない。しかし、その知識を実際の問題状況に直面した際にどう応用し問題を解決していくのかを、学生にも教員にも、十分に学ばせてこなかったのかもしれない。
学習のオンライン空間への拡張とその可能性
視点を大学の外に向けてみよう。私が関わっている(大学外での)社会的な活動として、「オンライン公民館」がある。通常、公民館というと、公立の社会教育施設を意味する。実際に存在する施設(建物)の中で、市民がそこに集い学んでいる風景が、公民館の具体的な姿である。しかし、2020年春以降に各地で広まった「オンライン公民館」は、オンラインで人々が集まる空間や機会を意味し、物理的な意味での建物が存在しない。福岡県久留米市の「くるめオンライン公民館」から始まり、その後、そのアイディアや理念に共感した各地(福岡県福津市・春日市、愛知県豊田市、兵庫県尼崎市など)の人々が、連鎖的に「オンライン公民館」を実践するに至っている。つまり「オンライン公民館」とは、「公民館」を名乗ってはいても、社会教育機関としての公民館施設ではなく、また実際の公民館施設が主催する事業でもない。しかしながら、誰もがそこに参加でき、そこに集う人たちが交流し、新しい情報やアイディアや価値観に触れることのできる場としての「公民館のように」という意味と思いが確かに込められている。
私自身は現在、尼崎市を拠点として実践されている「尼崎オンライン公民館」の運営に携わっている。仙台に住んでいる私がなぜ尼崎なのか疑問に思わるかもしれないが、理由は単純で、仙台に越してくる前に居住していた地域なのである。その縁を今も維持することができているのは、SNSの力でもある。
この活動の運営メンバーの多くは、当時住んでいた頃からの旧知の友人たちである。最初は形式的な仕事上の関係に近かったようにも思うが、共に過ごしてきた短くも濃厚な時間が、私たちの関係を「友人」と呼べるまでに昇華させた。私たちはすべてボランティアとして活動しているが、それぞれは多様な職業的背景を持っており、各自が持っている専門的な知識やスキル、そして人脈を生かして、何よりも楽しみながら、学びと社会づくりを循環させるための生涯学習を実践している。
実際に同じ空間に集まって直接対面しながら学ぶ場には、固有の良さや利点がある。しかし同時に、対面だからこその制約や限界もある。つまり、裏を返せば、オンラインには、オンラインだからこその利点と限界がある。
「オンライン公民館」の活動を通して、オンラインの強みが明らかになってきた。何より、最も大きな強みは、遠隔地や市井各所ともリアルタイムで繋げられる点である。次に、教室や会議室に一堂に会していなくても参加できることから、プログラムの組み方を工夫すれば、参加型・双方向型の企画が容易になる。第3に、オンラインだと、多様な参加スタイルを許容できる点がある。「オンライン公民館」では、参加者は、顔も声も出して参加する「フル出演モード」(カメラON/マイクON)、顔は出さず声だけで参加する「声だけ出演モード」(カメラOFF/マイクON)、ラジオやテレビのように視聴するだけの「リスナーモード」(カメラOFF/マイクOFF)の3つの参加方法を選ぶことができる。第4に、チャット等の機能を有効活用すれば、気軽な参加を可能にする。「尼崎オンライン公民館」では、講師が一方向的に話す時間でも、チャット機能に様々なリアクションを書き込むことで、講師と参加者との相互行為とそこから醸成される一体感を作り出すよう工夫している。例として、いつもチャットを使った企画である「オンライン句会」を実施している。一般の「句会」に倣って、参加者は、プログラムに参加する中で抱いた感想などを5・7・5の句にしてチャットに投稿する。
確かにオンラインと対面では多くの点で質的な違いがあるが、このように、オンラインでもプログラムのデザインと工夫次第で、豊かな学習空間を実現することができる。
ポスト・コロナ時代の大学教育
では、2020年、大学ではどうだったのだろうか。東北大学でも、前期セメスターは原則としてすべての授業がオンラインで行われ、一時期は学生がキャンパスに入構することも禁止されていた。実態として、大半の授業が事前に動画を収録したオンデマンド型の授業となった。中には、動画もなく、資料と課題がオンライン上のプラットフォームに投稿されるだけの授業もあったようである。学生たちは、自宅で、一日中パソコンの前に座って授業を受ける状況となった。
特に4月以降、前期セメスターが終わる8月に及ぶまで、特に大学に入学したばかりの1年生にとっては、入学直前まで思い描いていた楽しい大学生活のスタートの代わりに、新しい友人をつくることもできず、ただただ毎日、パソコンの前に座って、授業の動画を視聴し、課題をこなす日々がやってきた。そこで受講している授業の中身それ自体の問題とは関係なく、大半の1年生にとって、パソコンを経由して注ぎ込まれる多くの情報を、ひたすら受けとめるだけの学修の繰り返しになっていた点で、負の影響が大きかったと言えるだろう。また、その辛さを吐露して直接的に共有できる友人もいない中で、毎日少しずつストレスを募らせ、その生活が1か月、2か月と続く中で、多くの1年生がメンタルに大きな負荷を感じたようである。
当然ながら私も、2020年3月初旬までは、例年通りに対面授業を行う予定をしていた。4月、すべての授業の完全オンライン化が決定され、正直なところ、「もう授業は中止するしかない」と感じていた。その理由としては2つある。第1に、私自身にオンライン授業の経験が一切なかったことで、何ができて、何はできないのかから学ぶ必要があったためである。第2に、基本的にアクティブラーニング型の授業として実施していたため、授業デザイン上、学生同士が小グループでディスカッションを行うことができるという必須条件をクリアする必要があった。当初は、オンライン授業でそれができるとは知らなかったのである。
しかし、Zoomにあるブレイクアウトセッションの機能が、その問題を解決した。教室で実施する場合とまったく同じようにはいかないため、授業の流れを組み直す必要はあった。しかし、結果として、担当授業のすべての回をリアルタイムで実施し、授業時間の半分程度は、学生同士のグループセッションによって構成することもできた。最終的にもいくらかの「やりにくさ」は残るが、インターネットの通信状況が不安定であったり途中で切れてしまったりのトラブルが生じないという状況下であれば、十分に学生同士の対話や議論が行えると分かった。あとは、教員の授業デザインと学生たちの経験および適応力次第で、その質を大きく向上し得る。
もう1つ、オンラインか対面かの授業実施方法とは別の問題ではあるが、非常に大きかったのが、オンライン上のプラットフォームの存在である。2019年度までも類する仕組みがなかったわけではないが、2020年から、Google classroomを利用できるようになったのが非常に有益であった。資料を配布したり学生からの課題提出が一元的に管理できるようになっただけでなく、グループセッションの話し合いの内容を記録するためのドキュメントファイルを学生が同時に共同編集でき、それをデータとして保存・アーカイブすることも容易になった。2019年までは、毎週、授業前に学生の人数分の資料を印刷しなければならなかったが、2020年になって、オンライン授業においてのみならず、後期セメスターにおいて再開した対面授業においても、資料を紙で印刷することがなくなったのは大きな利点である。
ポスト・コロナ時代を見据えて、これから、大学教育はどこに向かうのだろうか。おそらく大学教育が目指すべき本質的な方向性は変わらないだろうが、私たちが目指すべき本当の方向性がどこにあるのかを、多くの人が真剣に考えたという点において大きなインパクトがあったと言える。また、その目標に向かう方法と手段は大きく変わっていくに違いない。
今回の「コロナ禍」のように、予測しなかった未知の状況に、ある時突然遭遇する経験は、未来においてもいつかまた訪れるはずだ。そのような時に、大学で教えているもの・大学で学ぶものとしての「教養」が役立たないとすれば、これ以上に皮肉なことはない。それは、2つの意味において皮肉である。1つは、「コロナ禍」は、多くの人々にとって予想外の出来事であったかもしれないが、学術的には「いつかは必ず起こりえる」と予想し得た(実際にしていた)事だからである。もう1つは、本当に予想できなかったとしても、その未知の状況に立ち向かっていく事こそ、研究や学問の価値であり、「教養」の持つ真の力ではないかと思うためである。そして、短期的には大きな混乱があったにせよ、多くの大学は、「コロナ禍」に対処し、この状況に適応し、そしてこの問題状況を未来に向けて克服しようとしている。私たちは、それぞれの専門性を活かしつつ、その専門領域の垣根を越えて協働しながら、「コロナ禍」の教訓を正しく認識し、未来に向けて前向きな変革の契機にしていかなければならない。