今日は、日常が少しだけ揺らいでいくような視点やお話をいくつか紹介したいと思います。字数の問題もあるので広く浅く色々紹介できればと思います。ちなみに僕自身は社会学が主に専門で、大学院の博士課程で研究中の身分です。

谷口祐人
ADVENT CALENDAR 2019―8日の投稿

12月1日から24日までクリスマスを待つまでに1日に1つカレンダーを空けるという風習に習って、記事を投稿するイベント、それがADVENT CALENDAR!
外部からの闖入者
外からやってくる、人やモノ
私たちの日常は、その日常を脅かす存在によって取り囲まれています。案外私たちの日常は脆いものなのです。
ではそもそも日常とは何なのでしょうか?ここでは、私たちが暗黙のうちに前提としている秩序のことです。秩序という言葉が少し小難しければ、ルールと置き換えてもいいでしょう。
私たちの日常は、常にその秩序やルールに反するもの排除しているのです。きれいな水が飲めるのが、ちょうど絶えず下水処理をすることに支えられているように。
しかし、日常というのは同じことの反復で時につまらないものになっていきます。さらにひどくなると腐っていきます。だからこそ、定期的にリフレッシュする必要があるのですね。
まれびと信仰とお祭り
まれびととは、外からやってきた人々(旅人、乞食、旅の一座、お盆に帰ってくる祖先など)のことです。これは元々神と同じ意味を持っていたようです。このまれびとは祭りにも利用されました。
お祭りは日常に風穴を空けるために定期的に外部の力を呼び込むための儀式です。そこでは、一時的に日常の人間関係がリセットされたり(無礼講)、共に踊ったり・儀式をしたりすることで共同性を強めていたのでした。そこではまれびとが祭り上げられることもありました。例えばナマハゲなんかはわかりやすいでしょう。村人が「異形のもの」に変身して、日常を脅かすのです。
このようにして、外部から「まれびと」を日常に呼び込んで、その日常を一時的に脅かすことで、つまらない日常を非日常に変えていくのが祭りの持つ力です。ただ、その一方で祭りは日常の秩序を強化することにもつながるのですが、ここでは省略するので興味があればご自身で考えてみてください。
突然の雨と間の悪い信号
外からやってくるのは「人」や「神」だけではありません。例えば、突然の雨や間の悪い信号なども僕たちの日常を揺らがせてくれます。
ここで少し個人的な話をさせてください。高校生の時の話です。僕は自転車通学をしていたのですが、その道すがら突如として大雨が降ってきました。しかも、その日はながいなが〜いということで有名な信号にひかかってしまいました。「最悪だ」なんて思っていると、後ろから声をかけられました。「よかったら傘使いますか?」と言って黄色の傘を差し出してくれる美しい女性がいたのです。その時の瞬間は、すごく長いように感じられました。しかし、悲しきかな。あるいは僕の恥じらいもあったのかもしれないですが、ちょうどその時信号が青になったので、「いや大丈夫です」と申し出を断り、そそくさと自転車をかっ飛ばしてしまったのです。
突然の雨によって可能になった出会いは、間の悪い信号のせいで台無しになってしまったのです。うらめしや、雨と信号。
自分のうちに他者の視点を持つこと
人類学や社会学の視点
日常を揺るがすものとして、外部からの闖入という視点をまず考えたのですが、今度は自己の中に外部を取り込むということについて考えてみようと思います。社会学や人類学は、外の視点を内に持ち込んだり、内にいながら外にいるように物事を考えたりする学問です。
期待破棄による秩序の脆さの確認
エスノメソドロジー という社会学の一分野では日常の秩序を確認するために、人々が当たり前にこなしているやりとりをあえて裏切ってみるという実験です。例えば、
恋人「おかえり。」
自分「あ、どうも。ありがとうございます。」
恋人「え?どうしたの?」
自分「いや、どうもしてないですよ。」
恋人「なんで敬語で話すの?」
自分「特に理由はないのですが、、、」
恋人「なに?ふざけてるの?」
とても親しい仲であるにも関わらず敬語を使って仰々しく話すのは変ですよね。では、なぜ親しい間柄で敬語を使うのは変なのでしょうか?うーん。「親しい間柄だから」「普通そうするものだから」「敬語は親しくない人や目上の人に使うから」というような理由しかパッと出てきません。しかしそれはなぜ?うーん。そういうものだから。としかいえない。
日常において私たちが遂行しているやりとりを支えているものって意外と脆いんじゃないか。日常の秩序は実は脆いものを問わないこと、やり過ごすことという努力の上に成り立っているということですね。
他者に成り切ってみる
人類学は西洋にとっての「他者」の調査でありかつ、「他者の経験」でした。西洋とは異なる世界観を持つ人々の生活のありよう、秩序の在りようを研究するのが人類学です。そこでは、まず自らの世界観や知の枠組みを疑う必要があります。そして「他者」に成り切ってみるということも求められます。完全になりきることはできないのですが、自分の視点で世界を見ない。そのことで人類学は豊かな知見を私たちにもたらしてくれます。
なりきるということに関連するならば、西洋ないし西洋化された社会に比べて、そうではない社会は「なりきり-模倣」の能力が高かったりします。楽器はもともと鳴き声の模倣であったり、あるいは動物に成り切って狩猟をしたり、踊ったり。そのような模倣の能力に秀でていたります。
このような社会では、人間だけが特権化され主体化されているのではなく、様々な動植物が人間と交渉可能な主体として位置づけられているようです。私たちにとって動植物は管理の対象でしかなかったりしますが、彼ら/彼女らにとっては交渉の相手だったりするのですね。私たちの世界観が唯一の世界観ではない。そのことを教えてくれるのが人類学です。
少しだけおどけてみる
では最後に、日常を楽しくする少しだけ実践的なtipsを紹介してみたいと思います。ポイントは少しだけおどけてみるということです。
社会的な時間から自己のリズムを取り戻す
まず、ちょっと歩き方とかそういうものを変えてみましょう。私たちの身体は意外と社会化されてます。つまり、社会に合わせた身体づくりが行われているということです。例えば、ハードワーク、もっというと爆速で流れていく資本や情報にも耐えられる丈夫な身体を作るために日々ゴールドジムに通ってみるとかそういう。
歩き方とかそのリズムとかも結構社会的です。なので少し歩き方、というかそのリズムを自分好みにしてみてください。例えば、みんなが「コツコツコツ」というリズムで歩いていたとしたら、自分は「コツ、コツコツ」って歩いてみるとか。もちろん社会的なリズムから大きくずれて歩くことですから、人にちょっと迷惑をかけたり、白い目で見られる可能性もありますが、一旦放置です。意外と楽しかったりしますよ。
ちょっとだけでいいからみんなの期待を裏切ってみる
そして、期待破棄実験に近いことをやってみるのもいいですね。「からかい上手の高木さん」になってみようということです。要は、ちょっとおどけてみたり、からかってみたりすると、日常の秩序が一旦停止して、面白かったりしますよ。もちろんやりすぎたら、大事な関係をぶち壊すこともあるのでそれは自己責任でお願いします。ポイントは怖くならない程度なところで笑いに変えてしまうっていうことです。では、また。