科学研究には背景に信念が隠れている場合が少なくない。そのような信念の中には科学の成功に便乗して一般社会に広がり、「科学的」と言うフレーズで時に現れるように見受けられるが、そうした信念自体が科学的検証を受けたかには注意を要すると思っている。本記事では科学において非常に重要な「測定」にまつわる信念を明確に表明した物理学者と、その後の科学研究によって、そうした信念にメスを入れられた事例を紹介する。
量子力学とよばれる物理学は、20世紀前半に原子のような極微の世界を正確に記述する物理学として成立し、現代の素粒子物理のような最先端科学の世界から、半導体など、一大産業となっている技術の基礎として使われている。そのため、現代の物質科学や、そうした科学を応用する技術の大前提として、多くの専門分野にいる研究者・技術者の間で「常識」となっている。もちろん、オカルトなどでは到底ない。しかし、量子力学を扱う一般的解説1e.g. 量子論の「状態の重ね合わせ」ってどんな話? わかりやすく解説してみたよ | KOTOの理科的つぶやきでも紹介されるような「重ね合わせ状態」や「波束の収縮」といった量子力学の基礎的概念は、自らを科学的だと考える人たちにどこか嫌われ、むしろ宗教的・スピリチュアル的とするような人たちにウケがいい2もっとも宗教・スピリチュアルの人間が量子力学を理解して発言していることを私は見たことがない。。これは、「科学的」とされる信念と量子力学の発想がどこか噛み合わないことを示唆しているように映る。
事実、量子力学の発想は、旧来の物理学者の信念とは相性が悪かった。特にアインシュタインなどは明確にそれを表明している。彼らは「量子力学は『不完全な理論』であり、いずれは自らの考える『物理理論の持つべき特徴』を持った、量子力学の上位互換、すなわちより詳細なことを予測できる『完全な理論』に取って代わられるべきだ」と考えていた3A. Einstein, et al.(1935) “Can Quantum-Mechanical Description of Physical Reality Be Considered Complete?” Phys. Rev. 47, 777。彼らのアイデアは非常に興味深いもので、その後の量子力学の研究を豊かなものにし、やや皮肉なことだが、彼らの信念の誤りの証明につながる4より正確には、「物理の理論はかくあるべき」とする信念を満たした理論では、どうしても説明ができない結果が出てしまう実験が可能であることも見出されてしまった。。しかもそれは実験による検証が提案され、そして既に多数の実験が行われている。
理論はかくあるべき、とする「信念」を自然科学で検証することは簡単ではない。詳細な内容は適当な教科書5清水明 (2004)『新版 量子論の基礎 その本質のやさしい理解のために』サイエンス社に譲るが、量子力学は自然現象を説明するための理論形式であり、いわば、「言語」だ。日常言語でどんな話をしても構わないように、言語である以上は、量子力学はそれを現象の説明のために使うただの前提で、それだけで何かを「証明」することはできないことがほとんどである。しかし、これから説明する「ベルの不等式」の話は、うまくその難しさを克服し、信念の部分にメスを入れていく。
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自然現象を記述する理論と旧来の科学的態度
物理に馴染みのない人でも、実験するときに、実験準備をうまく行って「同じ状態」を用意し、「同じように」測定を行えば、必ず同じ結果が得られる、という気がするのではないか。たとえば、私はお茶をよく飲むが、お茶の味が違う時には何かしらの実験条件の違いが見つかるものだし、条件を揃えるほど傾向の似たお茶を出すことができる。昔の物理学者、特に信念の強い、アインシュタインに代表される学者たちは、究極的にこれを信じていた。つまり、同じように実験を準備して、同じように測定行為を行えば、完全に最初から最後まで同じように再現できる。また、測定結果が違うのであれば違う状態であり、測定結果が同じものこそ、同じ状態として扱われるべきだ、と考えていた。さらにこれに加えて、測定という行為は「元から定まっている値を単に知るだけの行為」、という認識があった。言うなれば、身長175cmだから身長175cmという測定結果を得たのであって、測る前には具体的な数字はわからないかもしれないが、わからないだけで定まっていると考える。ややアバウトだが、量子基礎論と呼ばれる研究分野ではこの発想のことを局所実在論6より厳密に、この分野に詳しい人向けに書くと「測定対象となる物体の存在する場所に、測定対象を特徴付けるあらゆる物理量の値が、(時々刻々の変動はあれど)確定した形で存在していて、その挙動は全ての物理量について因果的である」という信念である。この信念の元で測定結果に確率的挙動が見られる場合には、「実験で制御困難な未知の物理的変数(隠れた変数)があり、この変数がランダムな挙動をしていて、実際に測る物理量の測定値も影響されてしまうから」という説明がなされる。「隠れた変数」は未知の物理量であるため正確な挙動がわからず、測定手法によって隠れた変数が影響を受ける可能性も考えられるが、隠れた変数も含めて「物理量が因果的」であるという信念があるため、脚注10のように実験を行うと、隠れた変数の測定手法による影響をなくすことができ、その結果「元から定まっている値を単に知るだけの行為」にすることができる。とよぶ。
量子力学では放棄された局所実在論
物理学においては、実験して何らかの測定を行うとき、最初に「同じもの」を沢山揃えて繰り返し同じ実験を行うことで、誤差を見積もり、精度を高くする。また、「違うもの」を用意してきて、それによって実験結果がどう変化するかを調べることで、法則性を発見する。ここで言及した「同じもの」か「違うもの」かを区別する概念が「状態」である。状態が同じ時には、その性質が同じで実験上区別ができない。実在論の立場からすれば、測定結果はあらかじめ定まっているべきであって、測定結果の違いは「実験で区別がつく」ので、測定結果が異なるというのは「状態が異なる」、とされる。
しかし、量子力学はこの前提を放棄した。詳細は教科書に譲るとして、一般には測定結果が定まらない「重ね合わせ状態」というものも認めなければならない、とした。そして、そのような重ね合わせ状態に対して測定する時、どの測定値を得るかは確率的にしかわからず、しかも一度測定結果を得た後は、もうその測定結果しか得られない、つまり、測定という行為が、「重ね合わせ状態」から普通の状態に、状態が変化させてしまう(波束の収縮)ことも認めた。今まで測定という行為は単に測定値を得る以上の意味を持たなかったが、量子力学では、「測定によって状態が変化することがある」とした。
局所実在論を仮定すると避けられない条件
物理について興味を持って多少調べたことのある人ならば、スピンという単語をどこかで聞いたことがあるのではないか。スピンは素粒子1つ1つが持っている性質だが、その姿形は日常生活にも現れている。詳しい説明は譲るとして、スピンをもつ粒子が電気を帯びると磁石としての性質を持つ7佐久間昭正 (2010)『磁性の電子論』共立出版。
スピンを測定する時の性質として、まずは、どんな測定をしても結果は2通りであり、それぞれ「+1」と「-1」とする。また、測定時に測定器の置き方で+1になる割合と-1になる割合が変化する。今回の実験では4通りの測定器の置き方を考えておき、置き方1、2、3、4と呼ぶことにする。スピンに関する性質として、「ベルペア」と呼ばれるペアが生成できることが知られている。ここでは単にスピンを持つ粒子2つのペアだ、とだけ考えれば十分である8実際にはただのスピンを持つ粒子のペアというだけではなく、ある種の性質を満たしたものだが、今回の議論にその詳細は不要である。気になる人は教科書をご覧ください。。
最初にベルペアをつくる装置を中央に置き、作り出された粒子が必ず、2つの測定器に向かって1粒ずつ飛んでいくようにする。次に、それぞれの測定器の置き方を調整し、測定結果をメモしてもらう人をAさんとBさんに割り当てる9量子論の思考実験では片方をAlice、もう片方をBobと名付ける伝統がある。その略としてAさんとBさんとして考えても良い。。Aさんにはもっている測定器を置き方1か2で、Bさんには置き方3か4でスピンを測定してもらう10ややテクニカルな話だが、測定器の置き方は、粒子がAさんとBさんの手元に到着してからランダムにきめてもらう。こうすることで、測定器の置き方の決定を測定値が定まるよりも後にすることになり、脚注6の「因果的である」つまり、過去が未来に影響しても、未来が過去に影響しないという信念により、局所実在論に基づけばAさんとBさんは互いの測定器の置き方に影響されない測定を実現することになる。。Aさんの置き方とBさんの置き方の選び方の組み合わせを考えると、「Aさんが1、Bさんが3」から「Aさんが2、Bさんが4」まで4通りある11以下、「Aさんが1、Bさんが3で測定する」ときを「測り方(1,3)」のように記述する。。ベルペアごとに、AさんとBさんの得た結果を掛け算した値のリストを作り、装置の置き方ごとに平均を求め、その平均値について、(1,3)、(1,4)、(2,3)の3つの平均値を足し、(2,4)の平均値を引いた値を調べる。
たったこれだけだが、昔の物理学者のもっている「局所実在論」の前提にもとづけば、「Aさんが置き方1で測定したか2で測定したか」がBさんの測定に影響をおよぼすことはないはずで、この前提に基づいて先の値を計算すると(詳細は教科書に譲るとして)-2以上+2以下になる。これを業界ではベルの不等式と呼ぶ。ところでそのような信念が一切ない場合にはこの不等式は成立しない。つまり、スピンを測定すると結果は+1か-1になるという以上の条件がない場合、脚注12のような例を考察することで、先の値は-4以上+4以下になる。信念が実験結果に対して制約を与えてしまうのだ12(1,3)、(1,4)、(2,3)ではAさんとBさんの積が+1、(2,4)では-1となるとき、先の値は4になる。この例は(1,3)、(1,4)が同じでありながら(2,3)と(2,4)が異なっていることに注意して欲しい。これはAさんの測定器の置き方を1にするか2にするかによって、Bさんが3か4かを選ぶ事による違いが変化することを示しており、局所実在論に反する。
量子力学とベルの不等式 局所実在論は否定されたが
量子力学の場合はというと。これも結果だけ示すが、-2√2以上2√2以下である。実験結果はこれによく合致している。この結果は、物理理論が常に局所実在論であるべきという信念が誤っていることを示している。しかし、少なくともスピンの実験を考える限り、-4以上4以下のなんでもありな理論を構成するほどのこともない。それゆえ、大仰しく局所実在論とは真反対の立場を取るべきだ、とはいえない。事実、-2以上2以下の結果を出すためにいくつかの仮定を用いているので、それらをほんのわずかに変えるだけで対処できる可能性もある。そのような注意点を踏まえて捉えるべきだが、このような哲学的にさえ見える問題を定量的な科学の問題として議論できた例として興味深い。
これだけの実験だが、アインシュタインが量子力学に対して問題意識を提示(脚注3)してからこの実験が提案される脚注13までは約30年を要している13J. S. Bell (1964) “On the Einstein Podolsky Rosen paradox” Physics Physique Fizika 1, 195。そして現在なお、この実験の改良研究も進められており、また、どのような理論の作り方がこの不等式を-2√2以上2√2以下という量子力学と同等な結果をもたらすか、など、幅広い関連した議論も展開されている。測定という普段気に止めることもないことが、科学においてはメタレベルで重要であり、そして実験科学であるところの物理学がこれにメスを入れるという事件が20世紀にあったのである。
Footnotes
⇡1 | e.g. 量子論の「状態の重ね合わせ」ってどんな話? わかりやすく解説してみたよ | KOTOの理科的つぶやき |
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⇡2 | もっとも宗教・スピリチュアルの人間が量子力学を理解して発言していることを私は見たことがない。 |
⇡3 | A. Einstein, et al.(1935) “Can Quantum-Mechanical Description of Physical Reality Be Considered Complete?” Phys. Rev. 47, 777 |
⇡4 | より正確には、「物理の理論はかくあるべき」とする信念を満たした理論では、どうしても説明ができない結果が出てしまう実験が可能であることも見出されてしまった。 |
⇡5 | 清水明 (2004)『新版 量子論の基礎 その本質のやさしい理解のために』サイエンス社 |
⇡6 | より厳密に、この分野に詳しい人向けに書くと「測定対象となる物体の存在する場所に、測定対象を特徴付けるあらゆる物理量の値が、(時々刻々の変動はあれど)確定した形で存在していて、その挙動は全ての物理量について因果的である」という信念である。この信念の元で測定結果に確率的挙動が見られる場合には、「実験で制御困難な未知の物理的変数(隠れた変数)があり、この変数がランダムな挙動をしていて、実際に測る物理量の測定値も影響されてしまうから」という説明がなされる。「隠れた変数」は未知の物理量であるため正確な挙動がわからず、測定手法によって隠れた変数が影響を受ける可能性も考えられるが、隠れた変数も含めて「物理量が因果的」であるという信念があるため、脚注10のように実験を行うと、隠れた変数の測定手法による影響をなくすことができ、その結果「元から定まっている値を単に知るだけの行為」にすることができる。 |
⇡7 | 佐久間昭正 (2010)『磁性の電子論』共立出版 |
⇡8 | 実際にはただのスピンを持つ粒子のペアというだけではなく、ある種の性質を満たしたものだが、今回の議論にその詳細は不要である。気になる人は教科書をご覧ください。 |
⇡9 | 量子論の思考実験では片方をAlice、もう片方をBobと名付ける伝統がある。その略としてAさんとBさんとして考えても良い。 |
⇡10 | ややテクニカルな話だが、測定器の置き方は、粒子がAさんとBさんの手元に到着してからランダムにきめてもらう。こうすることで、測定器の置き方の決定を測定値が定まるよりも後にすることになり、脚注6の「因果的である」つまり、過去が未来に影響しても、未来が過去に影響しないという信念により、局所実在論に基づけばAさんとBさんは互いの測定器の置き方に影響されない測定を実現することになる。 |
⇡11 | 以下、「Aさんが1、Bさんが3で測定する」ときを「測り方(1,3)」のように記述する。 |
⇡12 | (1,3)、(1,4)、(2,3)ではAさんとBさんの積が+1、(2,4)では-1となるとき、先の値は4になる。この例は(1,3)、(1,4)が同じでありながら(2,3)と(2,4)が異なっていることに注意して欲しい。これはAさんの測定器の置き方を1にするか2にするかによって、Bさんが3か4かを選ぶ事による違いが変化することを示しており、局所実在論に反する |
⇡13 | J. S. Bell (1964) “On the Einstein Podolsky Rosen paradox” Physics Physique Fizika 1, 195 |