皆さんはどんな旅行者ですか?
私は、複数人で旅行をすることが非常に苦手です。 見知らぬ土地へは、1人で行くに限る。これが私の、旅行に対する基本的な態度です。日帰りならいいんですけどね。泊りがけの旅行となると、どうしても1人の方が好きです。例外はもちろんあるけれど、まあ、基本的には。
「どうしてかな?」と考えてみると、おそらく自分にとって非日常な時間が流れる土地に、「日常」を持ち込みたくないからかと思います。「生活意識」とも言い換えられます。知人友人と外に出れば、どうしても内輪の空気になってしまう。「友人の前での私」という役になりきってしまう。それはそれで心地よいものなのですが、旅行先に行ってまでそれに浸ることはないだろう、と考えてしまうのです。案外そういう人って、多いんじゃないでしょうか。
ところで、松尾芭蕉の「月日は百代の過客にして 行かふ年も又旅人也(行き交う年≒人生もまた旅人である)」という句にもあるように、「旅」は人生を表す比喩として、しばしば用いられます。
逆も然り。「旅」の仕方に生き方が凝縮されているのではないか。考えてみると、計画の立て方、物の見方、お金の使い道。旅行では、自分自身の性格や文化が大きく反映される場面が多々あるのも、また事実です。「旅行を一切したことがない」という人は、それほどいないと思います。中でも、特に大学生であれば、何らかの制約に縛られることなく、自由に行動できる時間が多くあります。長期休暇にどこかへ出かけるという人も多いでしょう。
今回は、旅行にまつわる社会学理論を紹介することで、皆さんにとっての旅行の在り方を探っていくためのきっかけを作りたいと思います。
ADVENT CALENDAR 2019―16日の投稿

12月1日から24日までクリスマスを待つまでに1日に1つカレンダーを空けるという風習に習って、記事を投稿するイベント、それがADVENT CALENDAR!
観光の時代
「旅行」と一口に言えども、パッケージツアー、バックパッカー、卒業旅行 etc… その意味する範囲は広大です。
今回は、現代で最もポピュラーな旅行の形式の1つである「観光」という側面から、自身の旅行者としての在り方について考えてみましょう。私たちの、物の見方、意識的であれ無意識的であれ、「観光者」的になっているからです。
というのも、現代は、メディアを介して無数の情報(特に視覚的情報)が流入してくる時代です。無意識のうちに私たちの中には、様々な土地のイメージが形成されていきます。たとえ実際に行ったことがなくとも。お洒落な街として表象される吉祥寺、ロマンチックなパリのイメージ、東南アジアの雑多な都市のイメージ。ある土地に対してのイメージの持ち方は、知ってか知らずか、いつの間にか「観光者」的になっていきます。
さて、そうした間接的なイメージと実態とでは、様々な点で違いがあります。私にしても、パリについては上品な空間として空想していました。ところが実際に行ってみると、そこかしこに、犬のフンが落ちている。考えてみれば、パリにだって「暮らし」があるのだから、それくらいのことはあって当然です。
(もちろん衛生的にフンは拾って欲しいですが)
私たちは観光者として、そのような「違い」を生み出すイメージに対してどのように向き合っている(あるいは向き合っていない)のでしょうか。ここに、自身の「観光の仕方」を解くヒントがありそうです。
観光と真正性
「自分はどのような観光者で在るか」という問いを、「観光の特質であるイメージに対してどのように向き合っているか」へとさらに言い換えて、論を進めていきましょう。
今回は、観光現象への理論的アプローチのうち、特に主要な3つを取り上げます。以下3つの理論は、それぞれ独立したものではなく、相互に繋がりあっています。なのでどれか1つの型に自分の行動を当てはめるのではなく、自分はどのような「要素」を備えているか、と考えてみるのが良いかと思います。
「疑似イベント」を楽しむ旅行者
「疑似イベント」とは、マスメディアなどを通じて、間接的に生み出される出来事を意味します。社会学者のD・ブーアスティンが唱えた、観光に適応される初期の理論です。まず出来事があってそれをメディアが報道するのではなく、メディアに報道されるための出来事が作り出されるというわけです。
観光も、その疑似イベントの一例です。例えば、ツアーガイドやガイドブックは、観光客をその土地の内実ではなく、表面的な見世物へと誘います。あるいは観光ホテルという空間メディアは、観光客を土地の現実や日常(=居住区など)から隔離します。
このようにして、観光客は場所の本物性に接触することができなくなります。
「舞台化された本物らしさ」へと迷い込む旅行者
上記の理論に対して、D・マキァーネルは、「観光客は皆、無批判的に疑似イベントを体験するのではなく、常に場所の本物性を求めている」と考えます。すなわち、観光者は誰しも「ホンモノを体験したい!」と願っていると、ここでは想定されます。
しかし、無作法に生活圏(=ホンモノの生活が営まれている空間)に入ろうとする観光者に対して、地元の観光業者などは、見世物として「本物らしい」舞台を作り上げます。つまり、舞台的な「観光空間」は、観光者と住民との相互作用によって形成されるというのがマキァーネルの考えです。
ここでも、観光者は、場所の本物性から結果的に隔離されるのです。
「観光のまなざし」をもつ旅行者
社会学者のJ・アーリは、私たち観光者のものの見方=「まなざし」は、私たちが日頃所属する社会環境によって形成されると考えます。
まなざしの形成に関わるのは、「階級、性差、民族、年齢」という社会的地位や「家庭と労働の場」という非・観光環境です。
この視座に立てば、距離的に離れた土地を訪れることは、必ずしも日常生活から離れることとは合致しません。むしろ、観光は日常と表裏一体のものであると解釈できます。
前に書いたように、現代はメディアによって大量の情報が流入してくる時代であるため、この「観光のまなざし」は誰もがそれぞれの形でもっていることになります。
おわりに
最後に、私自身は、旅行を「日常」の拡張のための営みとして位置付けています。
「観光のまなざし」論でも述べたように、観光旅行と日常とは、決して離れたものではないからです。ならば、「日常」の内側に止まるのでなく、その「日常」の枠そのものをさらに広げていきたいと考えます。
言い換えると、生活圏の外に出て、ただリフレッシュをして帰ってくるのではなく、今まで縁のなかった土地の人々とつながりを持ち、居心地の良い場所を増やしていきたいと思い、旅行をしています。そして、表象された観光地に行くよりも、土地の人々の生活意識、すなわち「日常」へと接近することを試みます。例えば、ゲストハウスになどで住民らと交友を深めるなどを通じてです。
それは、日常の中で凝り固まった既成概念の破壊と再構築を、旅行に求めているためです。あらかじめ形成されたイメージ(=観光のまなざし)の中にとどまっての観光行動は、日常の裏返しにすぎないと捉えられます。それよりは、現地の住民と長く「直接」交流する機会を持った方が、文字通りの「未知」と遭遇できると考えます。ゆえに、私は1人での旅行を好みます。
なお、「観光のまなざし」論を唱えたアーリは、その後さらに「移動性(mobility)」を軸とした社会学の議論を展開しています。「移動」を中心概念に据えることで、ホームとアウェイの境界が薄れてゆく社会を描き出そうという試みです。私の旅行思想は、この俎上に据えることができるかと考えています。具体的な検討は、これからの長い旅の中でまた、漸次行っていこうと思います。
皆さんはどんな旅行者ですか?メディアを介して形成されたイメージを自覚しつつ、イメージと現実の間をゆらぐことで、豊かな旅行体験をすることができるのではないかと考えます。
旅行の仕方からアプローチをかけることで、自分自身の価値観について、ちょっぴりでも考えてみるきっかけになれば幸いです。