「障害」って何だろう?

最近、自分の認識を揺さぶられる体験をしました。

僕がケニアにいた時、卒論に用いる調査の一環として、学校に行けていない障害児の保護者の家庭訪問を行いました。 その中で、ある家庭にお邪魔した際の経験がとても心に残っています。

今回の記事では、その経験から考えたこと、僕たちは「障害」に対してどのような考え方が必要なのかについて書いてみます。

ひらっち

シェアスタッフ。途上国の教育開発を専門にすべての人々に質の高い教育を届けることを目指している。不就学児童、障害児への教育、インクルーシブ教育を勉強中。修士課程への進学に向け、目下準備中。

ADVENT CALENDAR 2019―15日の投稿

12月1日から24日までクリスマスを待つまでに1日に1つカレンダーを空けるという風習に習って、記事を投稿するイベント、それがADVENT CALENDAR!

ケニアでの経験

ケニアでの家庭訪問の経験から僕が感じたこと、それはずばり

障害があるかないか、どの程度の障害なのかは環境によって左右される

ということでした。

僕がその家庭を訪問した時、父母が快く出迎えてくれました。

彼らの障害をもった子どもは、「障害があって学校の椅子に座ることができないから」「授業にはついていけないから」という理由で、20歳になった当時も一度も学校には通えていませんでした。2、3歳のころに患った脳性まひの影響で下半身が自由に動かず、加えて重度の知的障害も併発していたのです。

しかし、彼の親やきょうだいは、他の障害の無いきょうだいと同じ様に頻繁にコミュニケーションを取っているし、彼の存在を受け入れています。家庭で彼が担っている役割もありました。家屋の中での移動に彼は苦労することはありませんでした。

障害を理由に学校に通えていない事実を受け止めながらも、そんな彼や家族の様子をみると、彼を「障害者」と認識して接する必要は無いんじゃないかな、という瞬間がいくつも見つかるのです。

この経験は、あれ、そもそも『障害』って何なんだ?と問い直すきっかけを自分に与えてくれました。

身体の一部が無かったら、それすなわち障害者でしょうか?では、『鋼の錬金術師』というマンガのなかで、母親を生き返らせようとし、結果としてかえって自分の片手片足を失ってしまった主人公は障害者でしょうか?またそれとは逆に、私たちの頭の中にある典型的な「障害者像」に当てはまらなければ、あの人やこの人は障害者とはならないのでしょうか?

では、「障害者像」を形作る「障害」とは何なのでしょうか。「障害」って、個人が抱える病気だったり体が自由に動かなかったり、必ずしもそういったことではなく、もしかして個人がある環境のなかで抱えている「生きづらさ」に近いんじゃないでしょうか。

困難を抱えている人たちの身体的・精神的な困難そのものだけでなく、ある人が暮らしている「環境」やその人がどのように生きてきたのかということへの注目は「障害」への理解を一歩進めてくれるようにも思います。

2つの障害モデル

障害とは何なのでしょうか?障害の定義が異なると、障害者が抱える問題の原因がどこにあるのかについての考え方も変わります。 以下では、主に2つの障害モデルを紹介しようと思います。

医学モデル(個人モデル)

このモデルに基づくと「障害」は「個人が身体・精神に抱える困難の生物学的・医学的な原因そのもの」という風に捉えられます。簡潔な例を挙げれば、「ある人の身体の一部が欠損していることそれ自体」「ある人の精神的な疾患それ自体」といった捉え方です。 そのため、「障害」は個人を「正常・健常」な状態に近づけるために「治療」したり個人から「除去」したりすべき「悪しきもの」と捉えられます。

さらに、もしこの立場をとるならば、「障害」はいたって個人的なものなので、「障害者本人が抱える問題は、障害者本人の努力で克服・解決すべき」という考え方にも繋がります。 耳が聞こえない人が手話通訳のない講義に出られないのは「耳が聞こえないから」であり、本人が「自己負担」で補聴器をつけることなどが求められます。手話通訳は例外的な「特別措置」です。

社会モデル

社会モデルでは、「障害(disability):ディスアビリティ」は、個人の身体的・精神的な欠損や機能の低下という「損傷(impairment):インペアメント」ではなく、「健常者に併せて作られた社会と個人の間にある障壁」という風に捉えられます。 ポイントは個人の機能的な損傷(インペアメント)と障害(ディスアビリティ)を明確に区別したことです1障害の医学モデルでは、インペアメントがすなわちディスアビリティに直結するもの、ないしはディスアビリティを「社会からの逸脱」と考えます。対して社会モデルでは、障害者運動が想定するモデルともなっていることから、規範的な側面も多分に含んでおり、ディスアビリティが「社会からの抑圧」としても捉えられます。日本においてはたとえ社会モデルに立脚したとしても、インペアメントの意味でも、ディスアビリティの意味でも「障害」という用語が使用されている印象があります。この注以前の「障害」や「障害者」という表記は、「障害」を後に問い直す導入とする意図があったことから特段の訳語などは付しておらず、想定している障害モデルや意味合いが曖昧になっているかもしれません。社会モデルにおける「障害」の意味をより前面に出した表記をする際には、「ディスアビリティ」という用語を用いるか併記することにしています。なお、「障害」を「障碍」や「障がい」と表記することもありますが、この記事では「障害」は個人の中で完結する概念ではなく社会との障壁であるとの認識から、「障害」と表記しています。

個人は社会によって「出来なくさせられる(disabled)」2障害者を表す言葉として、かつては“disabled people”という言葉が用いられていました。この言葉は、和訳した際に「出来ない人」という意味をもつ言葉です。近年では、この言葉が持つ否定的な意味合いを反省し、イギリス障害学とアメリカ障害学で異なった表現方法がよく見られます。すなわち、「”disabled”の認識を変えた英国流」と、「よりpeople firstの観点を前面に出した米国流」です。前者は、同じ表記を使いながら、“disabled”をかつての様に「出来ない」と読むのではなく、社会によって「出来なくさせられている」と読んでいます(BBCニュースなどは”disabled people”を用いています)。後者は、障害者であろうがあくまで人なのだという認識を前面に出し、“people with disabilities”と書くなど表記方法自体を変化させています。本記事では「障害者」という表記を用いていますが、「障害のある人」等といった表記も使用されます。上記のような、どのようにある人の障害を表記するかについては個々人が意識しておくべきことだと思います。こちらの記事は、英文ですがどのように障害を表記するかのガイドラインとして、多くの方に参考にして頂けるように簡潔にまとまっています。ということになります。

そして、この立場をとるならば、「障害」による社会からの排除は、個人にそれを被らせている社会の責任なので、「障害者が生活上抱えている問題は、社会全体で解決すべき」という考え方に繋がります。医学モデルの説明で出した例から考えれば、耳が聞こえない人が手話通訳のない講義に出られないのは、「講義を行う人たちが、当然想定しておくべき耳が聞こえない人たちの参加を想定していないから」であり、講義を行う人たちが手話通訳を提供したり、時には本人に補聴器を提供したりするといった、その場に応じた適切な対応を求められます。それも、こういった対応は「特別措置」ではなく「あたりまえ」のこととして行われる必要があります。

社会モデルが残した意義と疑問

社会モデルの登場は、医学モデル(個人モデル)とは違い「障害(ディスアビリティ)」の定義に「環境要因」を明確に見出すことができたという点で、非常に大きな意義があると思います。ある人が困っていた時に、彼らの環境に変化を加えることで困り感を解消する運びに繋げられるのはとても良いことだと思います。

ただ、社会モデルは、「障害(ディスアビリティ)」の原因を個人を取り巻く環境に強く求めたことで、むしろ個人の損傷(インペアメント)の存在を軽視しているといった批判もあります3WHOが発表した国際生活機能分類(International Classification of Functioning, Disability and Health: ICF)は、ディスアビリティを個人の環境に強く認めることによる弊害を認識し、障害について「医学モデル」と「個人モデル」を折衷した「統合モデル」ともいうべき考え方を採用しています。ICFは、個人の機能を①生命にかかわるもの(心身の動きなど)、②身の回りの世話などの行為にかかわるもの、③社会への参加(家庭内の役割、地域社会の催しへの参加)にかかわるものという3つのレベルに分けた「生活機能」として捉えています。ICFはそれぞれのレベルの生活機能が、健康状態や環境因子(建物の建付けや国家の制度など)、個人因子(年齢、性別、民族カテゴリなど)に影響を受けると想定しており、各因子と各生活機能レベル間での相互作用によって個人の「障害」を捉えていくモデルと言えます。

障害の社会モデルのような考え方では捉えきれない人々もいるように感じます。インペアメントとディスアビリティを明確に区別した結果、むしろディスアビリティ、すなわち社会的抑圧とは関係のないところで、個人の不完全で「異常な」身体があると見境なく認めることにも繋がりかねません

「誰が障害者なのか」という問いも、障害の社会モデルに立つだけではなかなか答えにハッキリとした境界線を引きにくいではないでしょうか。吉村(2019)が事例として取り上げているように、円形脱毛症を発症したことから、公の場で注目を浴びないようウィッグを着用して過ごす(パッシングといいます)ようになった女性は、障害者でしょうか。個人がどのように自分の症状に対処するのかという点に着目すると、耳が聞こえない人が講義に参加「できなかった」状態から、手話通訳によって講義に参加「できる」ようになることとはまた違うことのようにも思えます。

おわりに:障害をどう捉えるか?

先に述べた通り、障害という概念に個人の「環境」という要素を含めた社会モデルの意義はとても大きいように感じます。同時に、一般に障害者と同じ様な困難を抱えながらも障害者としては注目されづらい、社会モデルの考え方からもこぼれ落ちやすい人々もいるでしょう。

「そこまで多大なディスアビリティを被っているようには見えない/自覚できない…」こういった人々は「障害者」なのでしょうか?「どこからが/どこまでが障害者である/でない」の境界線が融けているかのような現在にあって、私たち個人は何を意識すればよいのでしょうか。

それは、個人の「生きづらさ」への注目ではないかと思います。

最近「発達障害」といったワードがよく聞かれるようになったり、難病患者が国会議員として当選したりと「障害」と関わりのあるトピックを耳にするようになりました。「障害とは何なのか?」や「誰が障害者なのか?」という問いに答えていくためでもありますが、個人の身体の「問題」、個人を取り巻く環境の「問題」だけでなく、「それらの状況や背景を引き受ける本人の生の『問題』」に対する注目は、私たちがどのように「障害」を捉え、それにどのような行動を取っていくべきなのかについて考えを深めてくれるように感じます。もしかしたら、そこでは「障害」よりも「生きづらさ」という言葉を用いた方が、社会モデルの見方からこぼれ落ちていくものも掬うことができるのかもしれません。

さらに、粗探しではない、他者の『生きづらさ』の想像ができているか?という反省的な態度が求められるのだろうと思います。このような態度は当然のことかもしれませんが、そんな視点をもっていたいものだ、とこの記事を書いてみて改めて強く思います。

そして、この記事の書きぶりにもどこか「『社会のこちら側にいる私』が『社会のあちら側にいる障害者』について書く」という構図が暗に想定されていないだろうかと自問自答する今日この頃です。もやもやしますね。

以上、日本帰国後のお勉強メモでした。ではでは!

吉村さやか(2019)「1章 『女性に髪の毛がないこと』とは、どのような『障害』なのか―スキンヘッドで生活する脱毛症の助成を事例として」榊原賢二郎<編著>『障害社会学という視座―社会モデルから社会学的反省へ』pp. 1-37. 新曜社.

Footnotes

Footnotes
1 障害の医学モデルでは、インペアメントがすなわちディスアビリティに直結するもの、ないしはディスアビリティを「社会からの逸脱」と考えます。対して社会モデルでは、障害者運動が想定するモデルともなっていることから、規範的な側面も多分に含んでおり、ディスアビリティが「社会からの抑圧」としても捉えられます。日本においてはたとえ社会モデルに立脚したとしても、インペアメントの意味でも、ディスアビリティの意味でも「障害」という用語が使用されている印象があります。この注以前の「障害」や「障害者」という表記は、「障害」を後に問い直す導入とする意図があったことから特段の訳語などは付しておらず、想定している障害モデルや意味合いが曖昧になっているかもしれません。社会モデルにおける「障害」の意味をより前面に出した表記をする際には、「ディスアビリティ」という用語を用いるか併記することにしています。なお、「障害」を「障碍」や「障がい」と表記することもありますが、この記事では「障害」は個人の中で完結する概念ではなく社会との障壁であるとの認識から、「障害」と表記しています。
2 障害者を表す言葉として、かつては“disabled people”という言葉が用いられていました。この言葉は、和訳した際に「出来ない人」という意味をもつ言葉です。近年では、この言葉が持つ否定的な意味合いを反省し、イギリス障害学とアメリカ障害学で異なった表現方法がよく見られます。すなわち、「”disabled”の認識を変えた英国流」と、「よりpeople firstの観点を前面に出した米国流」です。前者は、同じ表記を使いながら、“disabled”をかつての様に「出来ない」と読むのではなく、社会によって「出来なくさせられている」と読んでいます(BBCニュースなどは”disabled people”を用いています)。後者は、障害者であろうがあくまで人なのだという認識を前面に出し、“people with disabilities”と書くなど表記方法自体を変化させています。本記事では「障害者」という表記を用いていますが、「障害のある人」等といった表記も使用されます。上記のような、どのようにある人の障害を表記するかについては個々人が意識しておくべきことだと思います。こちらの記事は、英文ですがどのように障害を表記するかのガイドラインとして、多くの方に参考にして頂けるように簡潔にまとまっています。
3 WHOが発表した国際生活機能分類(International Classification of Functioning, Disability and Health: ICF)は、ディスアビリティを個人の環境に強く認めることによる弊害を認識し、障害について「医学モデル」と「個人モデル」を折衷した「統合モデル」ともいうべき考え方を採用しています。ICFは、個人の機能を①生命にかかわるもの(心身の動きなど)、②身の回りの世話などの行為にかかわるもの、③社会への参加(家庭内の役割、地域社会の催しへの参加)にかかわるものという3つのレベルに分けた「生活機能」として捉えています。ICFはそれぞれのレベルの生活機能が、健康状態や環境因子(建物の建付けや国家の制度など)、個人因子(年齢、性別、民族カテゴリなど)に影響を受けると想定しており、各因子と各生活機能レベル間での相互作用によって個人の「障害」を捉えていくモデルと言えます。

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