学ばないことは愚かで悪いことなのか? │ 英語教育の哲学探究2

※ 転載記事

この記事は、広島大学教育学研究科の柳瀬陽介教授のブログ『英語教育の哲学的探求2』から「学ばないことは愚かで悪いことなのか?」の転載許可を頂き、「みんなのShare Study」カテゴリーで掲載する記事となります。

学部一年生向けの授業(英語教師のためのコンピュータ入門) の資料の一つとして以下の記事を読んでもらったら、この記事をきっかけに、この授業では「『学ばないことは愚かだ』と言われているような気がしてなりません」という率直な感想を書いてくれた学生さんがいました。

齋藤孝x梅田望夫『私塾のすすめ ─ここから創造が生まれる』 ちくま新書 │ 英語教育の哲学的探究

以下、その学生さんの文章をコピーします。

「こちらがいろいろと働きかけても、全くやる気を示さない若者は取りあえず切り捨てる。そうして彼/彼女らには、周りの伸びる若者を目の前にさせたり、厳しい現実がひしひしと迫ってくることに気づかせる。それで少しでもやる気が出たら相手にする。何にも感じないなら丁寧に高等教育機関からお引き取りいただく」という発想に、教育者になろうとしている私は賛成しますが、個人で考えると賛成しかねます。

生きるのはその人の自由なのですから、教養を、生きる力を身に着けるか否かはその人次第です。知的好奇心に満ち溢れた人、おのれの能力を限界まで高めどんどん知識を吸収し世界でやっていこうと思う人ばかりではありません。勉強が嫌で、自分の好きなことだけして生きている人もいます。私の周りにもそんな人はたくさんいるし、それを悪いとも思いません。もしかしたらこの私の考えは甘いのかもしれませんが、それを生業にしている人だっていますし、「学ぶ」ということをしている人のほうが偉いという風潮にはどうも賛成できません。学ぶことで、単純に良い職に就いてお金を得て、生活水準をあげることもできるし、そういった目的でなくとも、学ぶことは自分の人生を豊かにするのも間違いじゃないかもしれません。「学び」をどこまで「学び」というかにもよるのかもしれませんが。

このブログ、授業を通して、いかに学ぶことが大切かを理解するとともに、逆に、「学ばないことは愚かだ」と言われているような気がしてなりません。もちろんこれは大学生など、自ら進んで学びにきている人向けですし、先生や先生が紹介される人すべてがそういった思考ではないと思いますが、身近に学ぶことをやめた人がいる自分としては、その人を批判されているような気持ちになるのです。学ぶことは単に知識をつけるだけでなく、生きるための、社会でやっていく素養も身に着けることができることは理解しているのですが、なぜでしょう、それを言ったとしても勉強したくないという人はいるのです。そういう人は後々痛い目をみればいいのでしょうか?痛い目をみることになるのでしょうか?

今回の予習で一番印象に残った部分について、思うところがありましたので、少し内容が乱れてしまったかもしれませんが、書かせていただきました。先生を批判する目的では一切ありません。

これはとても重要な指摘で、教育関係者は丁寧に考えるべきことかと思います。またこれは非常によい批判で、このような批判は教育機関ではどんどんお互いにするべきだと思っています。

ともあれ、私が考える論点を端的に述べるなら、上の問題は、教育を公共的な営みと考えるか私事と考えるかに収斂するのではないかと思います。

1980年代からの世界的な潮流となっている新自由主義の考え方では、教育をますます私事 (privateなこと) と考え、これまで国家の税金を使って公共的な営みとしていた教育活動を少しずつ “privatization” の対象としていますから、教育あるいは私事であり個人の自由であるとなるでしょう–ちなみに “privatization” ということばは、しばしば「民営化」と訳されていますが私は「私事化」と訳した方がいいのではないかとも思っています–。

しかしそれなら、なぜ日本国憲法第26条第2項や国際連合教育科学文化機関憲章(ユネスコ憲章)前文が次のように述べているのでしょうか。

日本国憲法
第26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

国際連合教育科学文化機関憲章(ユネスコ憲章)前文
文化の広い普及と正義・自由・平和のための人類の教育とは、人間の尊厳に欠くことのできないものであり、且つすべての国民が相互の援助及び相互の関心の精神をもって果さなければならない神聖な義務である。

これを読んで、「ああ、憲法や憲章に書いてあるんだからそうなんでしょう。すみませんでした」で済ませるのではなく、これらの理念を自分なりに納得する必要があります。そしてその納得するまでの過程でどんどんと批判的に思考し、これらの近代の理念を信じている者に対して質問する必要があります。授業を通してそのような対話ができればと思っています。

残念ながら、私事的な傾向の強いSNSの氾濫、およびそれに伴う公共的な言論空間の衰退にともない、現代社会のあちこちで、自分が信じたいことだけを信じ、その信念を共有しない者を痛罵する人々が増えてきます(ここで私は「人々」と他人行儀に書きましたが、自分にこそそのような傾向が芽生えていないかと私は何よりも自身に対する批判的態度を貫かねばなりません)。

そのような人々が増えた時の民主主義とはどのような政治形態となり、どのような結末を迎えるのか–これは現在、重要な問いであるのではないでしょうか。

たまたま昨日読んだコラムも、そのような現代的傾向の中で発せられた問いに対するものでした。

How to Engage a Fanatic

これから社会がますます高度知識化し複合化してわかりにくくなってゆくなか、「学ぶ」ということをどう考えるべきなのか、「学ばない」ということをどう考えるべきなのかーー教育関係者は社会的・歴史的な視点からしっかりと考えるべきだと考えます。

このように考えるきっかけを与えてくれた上の学生さんの発言に感謝します。


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